雑餉隈であり雑掌隈でありかつ雑賞隈【間の宿】
先日、これまで何度も訪問したことのある、大野城市曙町の施設【大野城 心のふるさと館】を久しぶりに訪ねました。
というのも、とっても気になる展示が開催されているらしいと小耳に挟んだからなんです。
その名も『御笠の森と日田街道をたずねる』。ああ、麗しの日田街道。結構前のことにはなりますが、
福岡城を基点に甘木まで、日田街道の一部を辿ってみたことがありますし、↓
はたまた『御笠の森』も、以前、その伝わるところによる、飛んだ笠の道筋を辿ってみたことがあります。↓
それはさておき、やっぱり日田街道ですよ。
懐かしさと新たな学びを求めて、いざ入館したいと思います。
お目当ての展示は2階スペースで行われているとのこと。ちなみに2階展示スペース隣りは、常設の『四王寺山』ミニチュア模型とビデオの部屋になっていて、
以前『四王寺山』を登った時に、こちらのミニチュア模型の素晴らしさをご紹介したこともあります。
で、日田街道展である。ああ日田街道。
配布パンフレットを確認しながら、展示されている興味深いお話を見ていきたいと思います。(参照させていただきます。ありがとうございます)。
まずそもそも日田街道とはなんなのか、そして大野城市とどんな関わりがあるのか。展示内にはこんなお話がありました。↓
江戸時代、日田と博多を結ぶ街道が整備され、博多と二日市の中間である雑餉隈には、旅籠や茶屋が立ち並ぶ間の宿(あいのしゅく)がありました。現在、大野城市の中心部を縦断する県道112号線の一部には日田街道や間の宿の痕跡が遺されています
こちらは「雑餉隈の地名のおこり」。(参照させていただきます)↓
アンケートボックス。こんな格好をして歩いてみたい。↓
お話は続きます。↓
日田街道は唐津街道、長崎街道、秋月街道、薩摩街道と接続。人、モノ、情報が行き交う大動脈。雑餉隈遺跡では間の宿で使われた食器が見つかり、東インド会社マークの皿も見つかりました
とのこと。(※唐津街道の一部を辿ったお話はこちらで!↓)
(※長崎街道の一部を辿ったお話はこちらで!↓)
また雑餉隈の日田街道沿いには木賃宿が立ち並んでいたとのことで、(※三瀬街道でも木賃宿のお話がありました!↓)
その一つが、栄宿。現在は人気うどん店に姿を変えています。↓
さらに、
間の宿には梅屋、姪浜屋、ともや、綿屋、いろはや、角屋という6軒の旅籠屋がありました
とあって、この辺りに、その内の3軒である梅屋、姪浜屋、ともやが並び立っていたのだそうです。
そこから一歩路地へ入ったところには、藩主が休憩所として使う御茶屋、の名残である門柱が立っていて、↓
実は以前、その御茶屋を探していた時に、この門柱を見つけてはいたんだけど、正解かどうか分からずじまい。
今回こうして答え合わせが出来て良かった。正解100万点。
それからこちらは郡境界標で、↓
境界標の奥に見えるお城のような結婚式場の敷地が雑餉隈遺跡であり、
その雑餉隈遺跡の出土物がこういう具合に展示してありました。かわゆい。↓
そこからさらに奥の、日田街道の通り沿いに鎮座するのが雑餉隈恵比須神社。↓
こちらの恵比須神社。展示内の説明書きによりますと↓
茶屋や旅籠屋にとって商売繁盛と火の用心は大事なこと。御笠の森の神木から作った恵比須神の木像は火災により一部焼失
とありました。(※以前訪ねたお話はこちらでも!↓)
そしてさらにさらにその奥には、山田4丁目の交差点を確認することができます。
福岡城から(へ)のびる日田街道には、メイン街道とは別に大名方面から(へ)のびていく中道通りなるものがあって、
これまで、中道通りというのは単なる近道だと思っていたんです。だがしかし、パンフレット内の説明書きによりますと↓
岩戸街道(中道通り・佐賀通り分岐点)。日田街道から井尻・高宮・平尾などを経由して福岡城下につながる街道。福岡藩主が長崎勤番の際などに利用
とありました。なるほど、知ってるつもりで知らないことばかり。学びの多い、楽しく愉快な展示見学となりました。完。
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【大野城 心のふるさと館】
福岡県大野城市曙町3丁目8-8