木賃宿の木賃は薪代のこと【旧三瀬街道と金武宿】
前回の続きです。↓
前回、ふと【金武宿】を訪ねてみようと思い立ち、福岡市西区の『西部運動公園』を勢い飛び出したのでした。
そして、道すがらの道路の脇に『金武城山古墳』の案内板を見つけ、太古の金武住民へ想いを馳せちゃったなあ。こんにちは。
それでは引き続き【金武宿】へ向かうことにします。↓
しばらく進むと案内が出ており↓
ここを左へ曲がるべし、とか書いてあるんで、その通りに曲がります。↓
するとそこからはゆるやかな坂道が続き↓
その坂道の途中には
お堂があったりして、趣きのある風景が広がっています。↓
もう少しだけ進んだ脇に↓
案内板が立っていましたので↓
さっそく読んでみると、↓
早良平野には江戸時代中期頃から明治時代にかけて、佐賀と福岡とを結ぶ「三瀬街道」が通っていました。三瀬街道の要所にあたる金武には「金武宿」とよばれる宿場があり、筑前福岡藩領内の宿駅である筑前二十一宿の一つに数えられていました
続きます。↓
金武宿の中心は馬や人足の手配をする人馬継所で、肥前から福岡へ向かう米や木炭などの荷物を積んだ馬の往来が多く、木賃宿が一軒ありました。また福岡から肥前へは塩や海産物などの商品を山越えして運び、金武宿で荷さばきなどを行っていました
「荷さばき」とは、荷物の処理や整理または仕入れた商品を売りさばくことの意。もう少し続きます。↓
金武宿には古くから醤油屋、酒屋があり、遅れて紺屋、質屋、雑貨屋などが軒を連ね、武士や商人などの旅人や住民たちで活気に溢れていました。石垣や漆喰壁の蔵などが当時のまま残っています
とのこと。こちらは福岡藩の宿場町の図。↓
以前辿ってみたことのある(一部区域)『日田街道』(↓)や
『唐津街道』(↓)など、なんだか懐かしい感じもしてきます。
こちらは【金武宿】近辺の案内図。さて、↓
ここ【金武宿】の次の宿場町は『福岡』ということなので、そのまま通りに沿って辿ってみることにします。帰るついでだし。
ひとまず後ろを振り返っておくと、辺りはこんな景色。それでは出発。さようなら【金武宿】。↓
しばらく坂道を下っていくと↓
ちょうど坂道が終わるところで↓
ぱっと視界が開けます。↓
そこから真っ直ぐに道はのび↓
「室見川」にかかる「松風橋」を渡って↓
さらに道なりに進んでいくと↓
おやまあ。あれあれ。飯盛訪問ではお馴染み「田」の交差点へ辿り着きました。
あとはほら、すぐそこが福岡だから。解散!ありがとうございました。
【旧三瀬街道と金武宿】
福岡市西区金武