阿恵官衙遺跡の近くに古代道路2つ【内橋坪見遺跡01】
先日、『夷守駅』のお話をしたときのこと。関連する史跡として「阿恵官衙遺跡」それから「内橋坪見遺跡」というワードが出てきました。
そこで今回、以前に一度訪ねたことのある「阿恵官衙遺跡」へ久しぶりに向かい、それからついでに「内橋坪見遺跡」も訪ねちゃおかなー、
という思惑を抱き、さっそく糟屋郡粕屋町に向かって駈け出したのでした。こんにちは。

扇橋の交差点を渡り、

篠栗線の踏切を過ぎれば、

右手に広がる緑の敷地。

こちらが、九州大学農学部の農場であり、また「阿恵官衙遺跡」が発掘されたという場所でもある。

あれ。おや。折れ曲がった歩道のガード部分に、前回訪問時には多分無かった説明書きが貼り付けてありますよ!?

さっそくそれぞれ読んでみたいと思います。まずは「京都妙心寺のつりがね」のお話から。↓

こう記してありました。↓
京都妙心寺のつりがねに「糟屋評造※(つき)米連廣國」(かすやこおりのみやつこつきしねのむらじひろくに)と記されています。「糟屋評」は糟屋郡の古い言い方。「評造」は役職の名。つまり役所の長官である「※(つき)米連廣國」という人物が、阿恵官衙遺跡政庁にいたということが分かる
続きます。↓
阿恵官衙遺跡政庁にいた「※(つき)米連廣國」につりがねを作らせたけど、なぜ京都妙心寺にあるのかは今も謎のままだ!
とありました。お次は「古代道路」についての説明書き。↓

読んでみます。↓
阿恵官衙遺跡の近くに古代の道路が2つ通っていることが分かりました。このうちの1つは奈良まで続いています。人々が行き来する交差点に阿恵官衙遺跡はつくられていました
とのこと。すぐ手前から見ると、順にまず「政庁」があって「正倉群」それから「古代道路(a)」が横切った向こうに「鶴見塚古墳」がある、という形。

その「正倉」については、↓

こんな説明書きが。↓
税として糟屋郡全体から集められた稲穀(もみがついた米)を保管する倉庫。15棟見つかっている。高床で、扉には鍵
それから「政庁」については、↓

こんな具合。
古代役所の中心施設。幅4.2m、長さ42mの細長い建物を四角形に並べて真ん中の広場で儀式を行っていた。櫛やスズリなどが見つかっています
そんな「阿恵官衙遺跡」の全体像がこちら。↓

といったところでガードの説明書きはおしまい。そのまま通りを先へ進むことにします。ここを左へ進めば、

神功皇后が時間を尋ね、そして石に腰掛けたという「阿恵日守神社」が鎮座。
今回は寄らずに右の道へ。

すると先のところで分かれ道になっていて、↓

右角の阿恵公民館前になにかしらの碑が立っています。おや古代道路にまつわるお話かな?

近づいてみて説明書きを読んでみると、

こうありました。
飢饉塚。1733年、天候不順でイナゴの害甚だしく稲作の大飢饉で粕屋町内も多くの人が餓死。享保の大飢饉。死者の霊を供養。ここに供養碑を建立。酒殿区泉蔵寺にも百人蔵という供養碑がある
とのこと。(※享保の大飢饉については、例えばこちらの記事も!↓)
このまま分かれ道を右へ進むと、その先は九州大学敷地により行き止まりである、との注意書き。

ふーん。その行き止まりにはいったいどんな光景が広がっているのか。古代道路跡が見れちゃうかも!?「鶴見塚古墳」につながったりして!?

続きは次回に。よろしくお願いします。
【阿恵官衙遺跡】
福岡県糟屋郡粕屋町阿惠255-1



