首が落ちたり胴が落ちたり1/2【菊池神社(胴塚)】
福岡市城南区の七隈地区にある福岡大学の、その前を通る「城南学園通り」から↓
少しだけ入ったところに【菊池神社】が鎮座しています。↓
通りから角を曲がると、すぐのところに広いスペース。そこがいわゆる参道?で、そのまま一の鳥居に向かって進みます。
ご祭神は「菊池武時(きくちたけとき)」「埴安命(はにやすのみこと)」「大鷦鷯命(おおさざきのみこと)」。
以前私は、ここ【菊池神社】の境内に、菊池武時の「胴」が眠る「胴塚」がありますよというお話を耳にしていたので、今回訪ねてみたというわけです。
で、その「菊池武時」という人はどうい人物なのか。調べてみるとこんな具合。↓
肥後国の武将で菊池氏12代当主。出家して名前は「寂阿」。
そして↓
元弘3年(1333年)、鎌倉幕府討伐を目指す後醍醐天皇の命を受け、武時は鎮西探題(現在の櫛田神社あたりにあったとか)の「北条英時」を攻めます。
「鎮西探題」というのは、幕府の出先機関のことだそう。↓
攻めたはいいけれど、少弐貞経や大友貞宗ら味方の裏切り・反撃にあい、わずかな兵力で戦うことを強いられることに。そしてその結果、敗死。
言い伝えによりますと、武時は馬に乗ったまま敗死し、その武時の「首」が馬上からようやく落ちたとされる場所が、福岡市中央区に鎮座する【福岡縣護国神社】そばの↓
六本松にある【菊池霊社(首塚)】とされていて(→首が落ちたり胴が落ちたり2/2【菊池霊社(首塚)】)、その後に↓
「胴」が落ちたとされる場所が、こちらの【菊池神社(胴塚)】であるよ、と伝えられているのだそう。↓
また、のちの天保2年(1831年)のこと。菊池武時の末裔で福岡藩士であった「城武貞」という人物が、武時の墓を探していていると↓
捜索の際、「夢に武時が出てきて指示通りにある場所を発掘すると刀が出てきた」という『言い伝え』があることを知りました。
そこで、その該当する場所に墓碑を建てて祀ったのでした。
その場所が、こちらの【菊池神社】だったというお話も。↓
また、首や胴があちらこちらに落ちたという『言い伝え』の一方で↓
武時は「鎮西探題」で討たれ、その際に武時の首は直ちにそこの犬射馬場に晒されました。
という説もあるとのこと。こちらはずっと現実的で本当っぽい。↓
だがしかし↓
疾走する馬上から首が落ち、首のない武将をのせた馬が福岡の町を駆け巡る
そんな光景のほうが、インパクトがありますね。いずれにしても、武時が討たれてわずか2ヶ月後に、結局鎌倉幕府は滅亡してしまったのでした。
さて、境内を歩いていると、本殿裏の一段高いところに石碑が見えます。↓
あれがきっと胴塚なんじゃないかなと思う。↓
澄んだ空気が辺りを包み、誰もいない境内に私一人。
そして狛犬がすごくいい顔をしている。いい顔だなあ。↓
気になる『首塚』のお話はこちらから!(→首が落ちたり胴が落ちたり2/2【菊池霊社(首塚)】)
【菊池神社】胴塚
福岡市城南区七隈7丁目10-1