神田は無事に作られたのだった【那珂川裂田溝01/03】

前回の続きです。↓

前回、福岡県那珂川市に鎮座する【那珂川伏見神社】を訪ねました。↓

それから神社を後にして↓

ただなんとなく辺りをぶらぶらしていたんです。こんにちは。↓

すると通りの角にこんな案内が出ていて、そこには「一の井手」と書いてある。出席番号一番の井出さんのことではないよ。↓

そのまま案内の方へと進んでみると↓

「一の堰手改築記念碑」という石碑と、絶対に偉い人っぽい人物像があって↓

その隣りには「一の堰手由来」なる碑がありました。↓

なにがなんだかだ分からないけど、とりあえず読んでみたいと思います。↓

筑前国続風土記には「山田村に神功皇后がほらせたという裂田の溝があって、この水を引いて田畑にそそぎました。この辺りでは特別に大きい堰であった」と記されています

また↓

そんな由緒深い堰手だけど、度重なる水害で決壊そして修復。昭和62年、近代的な堰手が完成しました

ちなみに『裂田の溝』は「れつたのみぞ」ではなくて「さくたのうなで」と読むらしい。↓

すぐそばに説明書きがありましたので↓

こちらも参照したいと思います。↓

「裂田の溝」は山田地区から安徳・仲を経て今光に至る総延長約5キロに及ぶ古代の人工水路。そしてこの場所は那珂川から水を引くための取水口です。水は取水口から足元をくぐって裂田溝へ流れています

そして↓

ここを始点として長大な古代水路が始まります

また↓

裂田溝に取水するために築かれた井堰は「一の井手」といいます。いつ頃造られたのかは分かっていません

とのこと。もうひとつ説明書きがあって↓

それはこんな記述。↓

一の井堰。日本書紀に記されている裂田溝に水を流すために築かれた井堰。川の流れに沿って並行に造られていました。長さ約150m。いつ造られたかは分かりませんが、裂田溝と同じ時期であるとされ、江戸時代にあったのは確実です

つまり私なりにまとめてみると↓

裂田溝→日本書紀に記されている→日本書紀は奈良時代→裂田溝も奈良時代→一の井堰と同じ時期に造られた→一の井堰も奈良時代→どちらも江戸時代には確実に存在していた

こういうことです!?とにかくこの地には、古くから立派な農業用人工水路があったということは分かりました。

 

こちらはその「裂田溝」が辿っている水路図。↓

せっかくですので、水路図のままに「裂田溝公園」を訪ねてみたいと思います。↓

静かな田園風景の中をまったり進むと↓

休憩所があって↓

水路がのびている。ここが「裂田溝公園」かな?↓

そばになんかあるぞ!!↓

近寄ってみると↓

「神功皇后御立石」と記されていて、説明書きもありましたので↓

読んでみるとこんな具合。↓

神功皇后は仲哀天皇の皇后で応神天皇の母。仲哀天皇が香椎で亡くなられた後、朝鮮半島へ三韓出征をしたことが有名です

続きます。↓

神功皇后は、出征へ出る前に神田を作ることを決意し、那珂川から取水する工事を始めました。その最中に神功皇后は石の上に立ち、工事の無事を神に祈ったのでした。裂田溝は無事に完成しました。裂田溝は今から約1600年前に造られた農業用の人工用水路です

またこちらには「神功皇后伝説」に関する説明書きが。↓

読んでみますね。↓

日本書紀には裂田溝に関するこんな記述があります。「溝を掘り進み、迹驚岡(とどろきのおか)に及ぶと大岩が立ちふさがっていました。そこで、天に祈ったところ、雷が落ち大岩が裂けて無事に水が通りました」。そのため裂田溝と呼ばれるようになりました

こちらは「裂田溝公園」の説明書き。↓

そう、ここはもう公園内だったのだ!!↓

古い歴史を持つ農業用水路「裂田溝」。日本書紀にもその存在が記載されています。水路は山田地区の「一の井手」から始まり、総延長は約5.5キロ。裂田神社付近では、掘削の邪魔をした大きな岩盤を見ることができます

大きな岩盤!!気になります。

気にはなるけど、ちょっと足腰に疲労が。

大事を取って、いったん休憩です。

続きは次回!!よろしくお願いします。↓


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【一の井堰】

福岡県那珂川市山田