長崎街道(一部)を辿ってみた01【原田宿】

つい先日のこと。

福岡県古賀市の『青柳宿』をスタート地点に設定し、そこから福岡市西区の『姪浜宿』までの区間に限りますが、

『唐津街道』(↓)を辿ってみたんです。

また、それより以前のことですが、『福岡城』から『JR甘木駅』までの区間に限り、

『日田街道』(↓)を辿ってみたこともあるんです。

その『日田街道』を辿った時、福岡県筑紫野市の山家地区には、『日田街道』と『長崎街道』(『薩摩街道』も!?)が接する地点がありました。

ふゥん。『長崎街道』か。辿ってみたい!というわけで、今回から数回に渡って、小倉と長崎を結ぶ『長崎街道』の!ごくごく一部を辿ってみようと思います。こんにちは。

 

でもちょとまてください。まず『長崎街道』とはなんぞやと。詳細を知っておきたい。そこで!

書籍『街道と宿場町/アクロス福岡文化誌』から、『長崎街道』について少し参照させていただきます。ありがとうございます。↓

長崎街道は江戸時代の九州の幹線。「長崎路」。木屋瀬・飯塚・内野・山家・原田を『筑前六宿』とよぶ。長崎街道が他の街道と異なるのは、長崎において異文化の流入があること

というわけで今回、『長崎街道』の中の『筑前六宿』のうち、『原田宿』と『山家宿』の一区間を辿ります。ごくごく一部の短い旅路ですが、よろしくお願いします。

まずはスタート地点である『JR原田駅』へ移動しましょう。エイッ。

 

ちなみに『JR原田駅』そして『原田宿』(↓)は、以前すでに訪ねたことがあるんです。

ですので、ご紹介するモノやコトが重複してしまいますが、ご了承ください。

駅前ロータリーにはベンチがあって、そこには旅人が!

あんた誰なんだ(2回目)。辺りにはいくつか案内書きがありますので、↓

『長崎街道』のお話だけ、ちょちょっとかいつまんで読んでみると、↓

原田宿(はるだしゅく)は九州で最も通行量が多い長崎街道に置かれ、参勤交代や長崎から江戸へ向かう外国人など多くの人々が往来。伊能忠敬によると、宿場すぐ右に関番所(通行手形を調べる)、横に町茶屋(宿泊所)、右に問屋(旅行者に馬やかごのお世話をする)、左に制礼所(幕府や藩の法令を掲示)。さらに進んで博多道と長崎街道の追分に出ると、正面に筑紫大明神の鎮守の森

とありました。

そしてこちらの案内板には

原田宿は長崎街道の宿の一つで筑前六宿の南端にあり、肥前国と筑後国に接した国境の宿場。「関番所」が置かれ往来手形を調べる「関番」がいました

とのこと。ではスタート。まずは『原田宿』を目指すわけですが、その前に。

駅前の交差点までちょっと足をのばします。

すると角のところにこんな案内板があるんです。

読んでみますね。

原田宿は国境の宿場。関番所が西構口の横に置かれました。軒先に「関番所」と書かれた行燈が下げられ、そろいの法被を着た二人の関番が常駐。関番所内の壁には逆鉾・ひねり・刺股・いが棒・寄棒が並べられていたようです

こちらは添えられた絵図。↓

つまり?ここが「関番所」かつ「西構口」になるのかな。ちなみに構口というのは↓

構口。宿場の出入り口を示すもの。道路と直角に石垣を組み、その上に白壁の練塀を築き、瓦を葺いたもの。街道の上りを東構口、下りを西構口といいます。青柳宿では西構口が一部復元されて残されています

では『原田宿』へ向かいましょう。交差点手前のこちらから角を曲がり、

くねくねいった先のところに、どんどんどんと案内板が並んでいます。

ここから先が『原田宿』。そして真っ直ぐ進むと、そこは『筑紫神社』の正面。↓

ではまず左端の地図を見てみます。↓

「東構口」は筑紫神社正面前に。一方の「西構口」は、ここよりさらに手前にあたるみたい。

つまりこのマンションの向こう側っぽくて

実際に見に行ってみると、こういう風になっています。つまり、この辺りか、

もしくは、すぐそばにある、先ほどの交差点の案内板辺りが「西構口」になるのかな。

次に真ん中の案内板を読んでみます。

まず添えられた絵図があって↓

こんな具合。↓

原田宿は筑前国福岡藩領の南端に創られた宿場で、筑後国久留米藩領と肥前国対馬藩領の三国の境に位置します。危機管理のため通行手形を発行する入国管理が番所で行われました

続きます。↓

原田宿から肥前国田代宿(長崎方面)へ向かうには三国坂(峠)を越えなければならず、旅人は宿場で売られていた「はらふと餅」を食べて難所に向かっていたのかも

最後に、右端の案内板。↓

こちらには↓

九州の街道で最も交通量が多かったのは筑前を通る長崎街道と日田街道及び長崎街道です。長崎街道は小倉から長崎間の57里1町20間半(約228キロ)。国内唯一の外国貿易港が置かれた長崎と江戸を結ぶ幹線でした

とありました。情報が多くて頭が沸騰しそうですが、先へ進みたいと思います。

このマンションの向こうに「西構口」そして「番所」。↓

『筑前六宿原田宿』。↓

説明書きには↓

「人家100軒あまり宿屋多く茶屋もあり」「豊年は出来あき人も諸共に肥えふくれたるはら田宿かな」

宿場町はゆるやかなS字カーブを描きます。↓

右手に『伯東寺』。↓

そばに説明書きがあって↓

読んでみると↓

原田宿の起こりは不明。島原天草一揆鎮圧に向かう松平信綱の軍勢が原田宿に宿泊した記録があり、そのころにはすでにあったと考えられます。初代代官は小河内蔵允。戦さの功績で、筑前国内に領地を与えられました

とありました。

またこちらの説明書きには

原田宿には多くの人々が行き交いました。日本最初の銅版画を制作した司馬江漢。狂歌作者の大田南畝。吉田松陰や伊能忠敬、そしてシーボルトなどのオランダ使節など

さらに「はらふと餅」の説明書きまで。↓

ああお腹すいてきた。↓

原田宿の東構口付近にあった「はらふと餅」を売る店。険しい三国坂や冷水峠を越えるためここで腹ごしらえをしたそうです

「はらふと餅屋」近辺で、通りは途切れることに。恐らくこの辺りが東構口でしょう。↓

横断歩道を渡った先には『筑紫神社』一の鳥居があって

地図で見るとこんな具合。↓

横断歩道のそばに案内板がありました。↓

これは添えられた絵図。↓

読んでみます。↓

安政5年(1858)ころの原田宿新町を中心とした風景。東構口を出たところに「はらふと餅屋」があり、その先から長崎街道と博多街道(天満宮参詣道)が分かれています

左へ進むと博多へ、右へ進むと山家へ。鳥居の脇にも石碑の姿が。

かつて旅人は、原田宿からそのまま『筑紫神社』参拝へ向かったりもしたといいますが、

今回、我々は右へ逸れて、神社の右脇へ。↓

長くなりましたので、続きは次回に!よろしくお願いします。↓


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【筑紫神社】

福岡県筑紫野市原田2550