福岡城の門と名島城の門があるもんで【崇福寺】

先日、福岡市博多区の千代地区にある【崇福寺】を訪ねましたので、そのお話です。↓

御笠川に架かる石堂大橋すぐの交差点から、箱崎方面へのびる昭和通りを進みます。↓

下町情緒あふれる街並みの中、↓

千代3丁目の交差点を渡って、↓

それからもう少しだけ進むと、↓

左手に立派な山門。こちらが今回訪ねる【崇福寺】です。↓

入り口には、まず『頭山満先生之墓所』と書かれた石碑。(※頭山満に関してはこちらの記事!↓)そして

(※こちらの記事も!↓)

頭山満は玄洋社の中心人物であり、高場乱の門下生だったことでも知られています。↓

では山門をくぐって境内へ。↓

ちなみにこちらの山門は、

福岡城の表御門を移築したものだそうです。↓

また【崇福寺】はかつて福岡城城主であった黒田藩の菩提寺だったということもあって、↓

境内奥には、【頭山満先生】だけでなく黒田家のお墓もあるとききました。↓

さて、これから【崇福寺】境内をぐるりと見学するわけですが、その前に↓

まず下調べとして、wikipediaの崇福寺の項から参照しておきたいと思います。↓

崇福寺は臨済宗大徳寺派の寺院。太宰府横岳に湛慧により建立。当初は太宰府にあった。岩屋城の戦いで焼失するも再建。黒田長政が筑前の藩主になって現在の千代町に移転されました

そして↓

福岡藩主黒田家の菩提寺として庇護を受ける事となる。境内北側には藩祖黒田孝高や長政ら藩主代々の墓所。かつて伽藍は海岸まで続き広大な寺域を誇ったが、福岡大空襲により灰燼に帰す

との記述がありました。(※太宰府の崇福寺のお話はこちらでも!↓)

またここ【崇福寺】には貴重な文化財が多くみられるそうで、

 

例えばさきほどの、福岡城から移築された『山門(表御門)』は↓

はじめ陸軍によって払い下げられたものが【崇福寺】境内に移築、↓

はたまたこちらの『唐門』は、

名島城から移築されたもの。↓

むむ、なんて書いてあるのかな。↓

境内中央付近には「千手観世音菩薩」。↓

「不動明王」。↓

禅堂があって↓

鐘楼。↓

旭地蔵堂。(※旭地蔵堂にまつわるお話はこちらの記事もどうぞ!↓)

この地蔵堂の奉納絵馬なんですが、

例えば【野芥縁切り地蔵】や

そして【飛来神社】、さらには

【吉実塚】にあった奉納絵馬と

絵柄がそっくりなんですね。っていう。↓

堂内。↓

【崇福寺】境内は、まったり静かで落ち着いた雰囲気で、↓

さらに奥へと進んでみると、そこは墓地。↓

玄洋社のお墓の、↓

その周囲には「頭山満」そして「来島恒喜」のお墓も。↓

こちらは「来島恒喜」の墓石の裏側。↓

さらに奥のところを見てみると「高場乱」のお墓もありました。↓

(※高場乱についてはこちらのお話も!↓)

引き続き墓地スペースをさらに先へと進んでみると↓

そこには門があって、門の向こうが黒田家の墓所になっています。↓

でもね、どうやらこの門から直接向こう側へ行くことはできないみたい。

そばの説明書きには↓

藤水門。黒田家墓所は福岡市文化財保護指定となりました。以前から参詣者のための通用門について強く要望され、整備。藤水門と名付けられました

とあって、また別の案内板もありましたので↓

読んでみると、こんな具合。↓

黒田家墓所。黒田家の菩提寺であった崇福寺に藩祖黒田如水、初代藩主長政を中心に祀った墓所。昭和25年に改葬が行われて墓所は整備され、現在12基の石塔が並んでいます

とにもかくにも、なにはともあれ、黒田家墓所内へ向かうためには、

 

一度【崇福寺】を出て、周囲をぐるっと廻る必要があるみたいなんです。↓

そんなお話の続きは次回に。よろしくお願いします。↓


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【崇福寺】

福岡県福岡市博多区千代4丁目7-79