大きな大きな寺院の跡に【横岳崇福寺跡】

福岡県太宰府市の政庁通りを歩いていたら、通りの途中に案内が出ており

なにげなく見てみると『三十三石仏』とか書いてあるんです。これは気になります。三十三もの石仏が勢ぞろい!?ああ夢が広がります。

とか言って、左にのびるゆるやかな坂道を上っていったら

え待って立ち入り禁止になってるじゃないですかあ。なんでなんですかあ。というか

そばにある地図を見てみたら

 

目的地の石仏は、想像していたよりもずっと山の奥の方にあるみたい。正式名称は『四王寺山三十三石仏』。遠いよ。むしろ立ち入り禁止で助かった!?

ということで、今回の石仏訪問はとりやめである。他にも行き道ありそうだけど。また別の機会に来るからね、とかいってそのまま辺りを散策していたら

おや見覚えのある景色が目の前に。

そう、以前訪ねたことのある『朝日地蔵尊』である。

(※訪ねた時のお話はこちらでも!↓)

僧湛彗の悲しいお話を思い出します。

この通りを右へ曲がると『太宰府天満宮』へと向かう道に続きますが

今回は、通りを真っ直ぐ進んでみることにします。

しばらく進むと↓

どんつきのところにお寺?のような趣きがあり↓

左手には神社が鎮座。こちらは【横岳八幡宮】。由緒書きなど見つかりませんでしたが、きっとご祭神は「道真公」!?

境内を一番奥のところまで進んでみるとこんな具合。なんて書いてあるのかな。↓

左の脇道を進んだところに

説明書きがありましたので

読んでみたいと思います。↓

横岳崇福寺跡。随乗坊湛慧が建立。のち聖一国師や大応国師等の名僧が住し規模を広げる。筑前の守護であった武藤少弐氏の後援により影響力を増す。天正14年、島津氏の太宰府岩屋城攻めの際、全伽藍を失う

横岳崇福寺湛慧による建立だと。参照は続きます。↓

大応国師の弟子たちはその後、大応派を形成、中でも横岳派と呼ばれた崇福寺を本拠とする一派は強い影響力を持ちました。この地は瑞雲寺が管理。敷地内には室町時代の石塔群や庭園など貴重な遺構が残されている。この場所は山内に展開した塔頭(寺を構成する施設)があった場所であり、江戸時代には寺を守るため勝禅寺が置かれた場所でもある

奥に見えたお寺の文字は「瑞雲寺」。もう少しだけ参照は続きます。↓

ここから左手の観世団地内には寺の中心施設であった推定法堂(一説には宝殿)跡があり、東側の丘陵裾には別院横岳崇福寺と大応国師を祀った開山堂(別名瑞雲塔)が見られ、大規模な寺院であったことを知ることができます

とのこと。さらに脇道を進んでいくと

上へ向かって階段がのびている。

ああ階段。しんどいなあ。なるべく階段を上らない人生を望む!!

続きは次回に!!

【横岳崇福寺跡】

福岡県太宰府市白川20