11歳の満氏が庭にクスノキを植えた理由【西新緑地】
福岡市早良区の西新地区をしばらく散策して、じゃあそろそろ帰ろうかと地下鉄西新駅へ向かって歩いていたら
地下鉄の駅のそばにちょっとした広場があったので、あれ広場あるじゃーんとか言って、ちょっと休憩がてら寄ってみたのであった。こんにちは。
ちなみにこちらの広場、実は以前にも訪れたことがあるんです。
名前は【西新緑地】。明治通り沿いに佇む静かな緑地。
(※以前訪ねたときの写真。だから何って感じの変化に乏しい写真である↓)
緑地内に入ると、真ん中にクスノキが立っていて
そばに説明書きが。ちなみに奥には西新公民館。
説明書きを読んでみるとこうありました。↓
楠木の由来。このクスノキは政治結社「玄洋社」の創設者の一人頭山満翁が植えたものです。そばに立つ石碑には頭山翁が11歳の時「楠木正成のような人になりたい」との願いを込めて生家の庭に苗木を植えたとあります
つまりこの緑地というのは、かつて頭山満氏が生まれ育った生家の庭であったんだよと。それにしても、ですよ。楠木正成のようになりたいからっつって、自分ちの庭にクスノキ植えますかと!!11歳ですよと!そのこころはなんですかと!?
うーん。やはり偉大な人物は発想と行動力が傑出しています。
そんな頭山満氏とはいったいどういった人物だったのか!?wikipediaからざっと引用させていただくと↓
自由民権運動に参加し玄洋社を創設、大アジア主義を唱導。玄洋社の中心人物として対外強硬論を主張し続け、孫文の中国での革命運動への支援や韓国併合などを推進。日本に亡命したアジア各地の民族主義者・独立運動家への援助を積極的に行った
略歴としては↓
筑前国早良郡西新町の福岡藩士の三男として生まれる。13歳の時には、太宰府天満宮の「満」から名前を授かって筒井満と改める。母方の頭山家に当時3歳だった娘の婿として迎え入れられ、頭山に姓を改める。11歳の時に「楠木正成のような人物になりたい」という思いから生家の庭に植えたクスノキが、現在も生家跡(現・西新エルモールプラリバ)北側の西新緑地に残る
続きます。↓
16歳の時、高場乱が開いていた興志塾に入門。矯志社の社員となる。自由民権運動の結社であった向陽社を結成、改名して玄洋社に。箱田六輔(30歳)・平岡浩太郎(29歳)・頭山満(25歳)は「玄洋社三傑」と称された。不平等条約改正反対運動のリーダー的存在に。のち自由民権運動の志士から脱却し「国士」としてアジア主義への道に。大日本国粹会を立ち上げ。御殿場にて死去。頭山家の菩提寺である圓應寺と博多、崇福寺 (福岡市)の玄洋社墓地にも墓はあるが東京青山霊園にも墓があり
とのこと。
(※少年期に通った興志塾についてはこちらの記事で!↓)
(※福岡市中央区の赤坂にあった玄洋社跡を訪ねたお話はこちらで!↓)
(※頭山満の墓地がある崇福寺のお話はこちら!↓)
緑地の奥の隅っこのところにも、また石碑が立っており、こちらには『筒井條之助君記念碑』と記してある。え待って、誰。あなた、誰君。
検索して調べてみたら、どうやら頭山満氏の甥にあたる方なんだそうですが!?記念碑とは!?なんの記念なんだろう!?
「追加で勝手にクスノキ植えちゃいました記念」とか!?
それはつまり「追いクスノキ」。オイだけに!?
といったところで休憩はおしまい。そろそろ帰ります。もう早く帰りたい。お疲れ様でした。
【西新緑地】
福岡市早良区西新2丁目10-10