かつての薬用人参畑が今は薬局よ【人参畑塾跡】

福岡市博多区の住吉通り沿い。賑やかな都会の片隅の↓

ビルとビルの隙間にまぎれたところに、とある石碑が立っていて、その石碑には【人参畑塾跡】と刻まれているのであった。↓

石碑が立っている周辺は、福岡藩の薬用人参畑だったそうで、界隈では今でも「人参通り」「人参公園」といった歴史の名残を見つけることが出来ます。↓

そんな場所でかつて、高場乱(おさむ)という女性が「興志塾」という塾を開きました。人参畑という場所柄から「興志塾」は【人参畑塾】と呼ばれ、現在その場所に石碑が立っているというわけです。↓

ちなみに石碑の書は玄洋社創設で知られる「頭山満」によるものらしい。↓

(※頭山満のお話はこちらでも!↓)

それはさておき。【人参畑塾】を開いた高場乱とはいったいどんな人物だったのでしょう!?

 

そこでまず、wikipedia【高場乱】の項そして他サイトなども一緒に参照してみると↓

高場乱は1831年に眼科医の娘として生まれ、家を継がせるために父親から男性として育てられました。もとの名は高場乱子だったけれど、男として元服し高場乱となります。16歳で結婚するも離婚

(※眼科医のお話はこちらでも!↓)

それから高場乱20歳のとき↓

広瀬淡窓らとともに、亀井南冥と彼の息子が開いた「亀井塾」で儒学を学びます

亀井南冥は

『金印弁』そして

「西学問所」で知られる儒学者。

時は流れて明治6年(1873)。高場乱42歳の時に↓

【人参畑塾】とよばれる『興志塾』を開きました。『玄洋社』で知られる頭山満や中野正剛、広田弘毅といった名だたる人々が、この塾で学び高場乱の影響を受けたとされます

ちなみに、頭山満はもともと眼の治療のために高場乱の元を訪れたのだそうです。

現在、西新緑地には彼が植えたという楠木があって↓

彼が創設した玄洋社跡は、福岡市中央区舞鶴のビル前に碑が立っています。↓

また、勤王の歌人で知られる野村望東尼ともつながりがあったとか!?なかったとか!?

みたいなお話があったり。↓

さらに『福岡の変』においては、【人参畑塾】の弟子たちが多く関わっていたため、高場乱自身も疑われ捕えらることになったり。

こういったエピソードが語る彼女のイメージは、まさに豪放磊落。ですが実際は身体が弱く華奢な人物だったとも。

晩年の明治22年(1899)には、弟子の来島恒喜が外務大臣だった大隈重信を暗殺しようとテロを起こすも、失敗し自害。

次第に激しさを増す荒々しい世情の中、高場乱は病に侵されますが自身の治療を拒み、その激動の生涯を終えたのでした。明治24年(1891)。

高場乱の墓所は

博多区千代の『崇福寺』(↑)にあって↓

弟子の来島恒喜そして↓

頭山満と並んだお墓には↓

墓碑銘「高場乱先生の墓」。↓

こちらは、勝海舟が書いたものだとききました。


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【人参畑塾趾】

福岡市博多区博多駅前4丁目4-21