吉実塚があるからここは吉塚【吉塚地蔵堂(吉実塚)】
先日、福岡市博多区の吉塚地区にある【吉塚地蔵尊/吉実塚】を訪ねてました。こんにちは。
訪ねたっていうよりも、妙見の交差点から高架下を抜けて「パピヨン通り」からつながる「吉塚通り」を歩いていたら、たまたま目に入ってきたので寄ってみたというわけです。
【吉実塚】はちょうど商店街入り口のところにあって↓
颯爽と近づいてみると↓
そばに案内板がありました。↓
さっそく読んでみるとこんな具合。↓
筑後星野の城主である星野吉実は、敵将である高橋紹運を四王寺山の岩屋城で滅ぼしました。その後、高鳥居城の守護となりました
それは16世紀後半の安土桃山時代のこと。そののち↓
天正14年(1586)に、亡き紹運の長男で豊臣勢の立花宗茂の攻撃により落城。吉実は自刃し、その首がこの地に埋葬され「吉実塚」とよばれました
倒した相手の、その息子にやられた、ということですよね。(※高橋紹運のお話はこちらでも!↓)
そういうことから↓
この地は「吉実塚」から「吉塚」とよばれるようになりました。ここには供養のための『吉塚地蔵』もあって、地蔵尊祭りが毎年行われています
気になったので、もう少し、ことの詳細を調べてみたところ↓
豊後大友氏と薩摩島津氏との戦いで、筑後の「星野吉実」「吉兼」兄弟は、島津側の配下にいました。島津軍として立花(大友側)を攻めていたけど、立花(大友側)に豊臣秀吉の援軍(毛利軍)がやってきたので、島津軍は撤退。だけど星野兄弟は最期まで抵抗。立花宗茂によって落城、自害したのでした。立花宗茂は、筑後柳河藩の初代藩主になりました
こういった歴史の流れだったみたいです。
さらに続きがあって↓
江戸時代になり、妙蔵尼という尼僧がここに地蔵堂を建て、星野兄弟を祀ったのでした
地蔵堂の中には奉納絵馬があって、↓
この絵馬の絵柄は、例えば【野芥縁切り地蔵】や↓
はたまた
【飛来神社】でも見覚えのある、
なんとも親しみある絵柄です。↓
扁額。↓
地蔵堂の裏には「吉塚地蔵会館」があって↓
その隣には【秋葉宮】。こちらには、火の神様「火之迦具土神(ひのかぐつちのかみ)」が祀られているとのこと。↓
さらに、地蔵堂の後ろに見えているのが【吉塚市場】(旧吉塚商店街)の入り口。
今回初めて訪れたので↓
様子が良く分からないままに、とりあえず商店街を駆け抜けて、そのままの勢いで帰宅したのであった。完。
【吉塚地蔵】
福岡市博多区吉塚1丁目16-11