美しく教養があり大宰府高官に愛された【旅人と児島02】

前回の続きです。

前回、太宰府市国分地区にある東門跡にて、大伴旅人と児島の別れに想いを馳せました。そして、

知らん中年カップルの恋愛沙汰には、極力関わりあいたくないなと思ったのだった。ナマイキごめんなさい。

さて今回は、前回に引き続き、これまでの旅人とのエンカウントについて、自サイト内記事を振り返っていきたいと思います。

ちなみに前回はまず「坂本八幡宮」、それから、

「香椎宮頓宮」での旅人との出会いのお話をしました。

ではその続きから始めます。まずは「草ヶ江公民館」での出会いのケース。↓

「草香江の 入江にあさる あしたづの あなたづたづし 友なしにして」

天平2年(730)、隼人征伐に来ていた大伴旅人は、妻を失い家来は戦死・病死。そこで聖武天皇に願って奈良の都に召還されました。

その帰りの途中に鴻臚館へ立ち寄り、そこから草香江の入江を見ると、一羽の鶴が寂しそうに餌をあさっていた姿を自分に重ね、歌ったと伝えられています

この大伴旅人は、歌の状況から考えて、児島と別れたあとのようです。

それからお次に、↓

「二日市温泉」での出会いのケース。↓

「湯の原に 鳴く葦鶴は わがごとく 妹に恋ふれや 時わかず鳴く」。この地で妻を亡くした旅人が、その悲しみを、湯の原に鳴く鶴の姿に重ねたもの

歌に出てくるは鶴。先述の「草ヶ江」の地でも、そしてこの「二日市温泉」でも、旅人は鶴を自身に重ねがち!そういうとこある。

(※ちなみにこちらの歌に関しまして、書籍『海路12号』から参照させていただきますと)↓

p28 大伴旅人が「湯の原に鳴く鷺田鶴はわがごとく妹に恋ふれや時分かず鳴く」と詠んだ「湯の原」は二日市温泉東方に小字地名として残っており、場所としては筑紫野市歴史博物館が所在する付近

とありました。(※筑紫野市歴史博物館についてはこちらの記事も!↓)

では旅人との出会いのお話に戻ります。今度は「観世音寺」での出会いのケース。↓

「ここりありて 筑紫や何處(いづち) 白雲の たなびく山の 方にしあるらし」

現代語訳は↓

「ここ(大和)から見て筑紫はどの方角だろう。白雲のたなびく山の方らしい」

大宰府帥であった大伴旅人は大納言になって奈良に帰ります。この歌は都に戻ったあと大宰府を偲んで詠んだ歌

旅人は帰京したあと翌年66歳で亡くなった、と前回の記事で知りました。つまりこの歌はその間に詠われたということ。

では旅人とのエンカウントの思い出、最後のお話は「日守神社」でのケース。↓

九州には11の駅家(馬と人夫の宿)が置かれており、ここ「夷守(日守)」にも駅は設置されていて、交通の拠点でした。

「草枕旅ゆく君を愛しみ 副いてぞ来し 志可の浜辺を」

大伴旅人(大宰府長官)が病のときに、奈良にいる弟と姪が見舞いにやってきてくれました。病が治ったので、奈良へ戻る彼らをここ日守まで見送りにきました。そして別れの宴で詠んだ歌

(※駅家とは、官道に沿って一定の距離ごとに置かれていた施設。乗り継ぎ用の馬が備えられていた、とのこと)

以上が、これまでの記事で出会った私と旅人の記録である。旅人についてはもうじゅうぶん分かりましたよと。

では、もう一方の主人公である児島はどんな感じなのか。こちらの自記事内にこんなお話がありました。↓

p309 筑紫の遊女としてまずあげられるのは檜垣。筑紫白川でうたった歌で知られる檜垣。遊行女婦児島の流れをくみ、美しく教養があり和歌にたけ、大宰府の高官に愛された女性。10世紀ころ、高官のやかたに出入りし、その美と教養を高く評価された大宰府の遊女であったことはまちがいなさそう

檜垣へと続く、美と教養にたけた大宰府遊行女婦の流れ。

その基となったのが!?児島だよ!!のお話でした。終わり。

【水城館】

福岡県太宰府市国分2丁目17