大伴旅人と、児島だよ!!のお話【旅人と児島01】
つい先日のこと。数回に渡って、東門ルートと西門ルートの官道を辿ったお話をしました。
東門ルートの基となる東門跡(太宰府市国分地区)にはいくつかの説明書きが立っており、
その中に、東門に関するこんな一文があったんです。
奈良・平安時代、東門の道は、都から赴任した役人など多くの人々が往来しました
また、別の説明書きには、
こんなお話が。↓
大宰府の入り口であったことから、901年に京から配流された菅原道真がここから大宰府に入ったと伝えられます
それからこちらの説明書きには、↓
東門がキーとなるエピソードが2つ記されています。
東門は都から大宰府への玄関口。大宰府に赴任する官人たちは水城の門で出迎えを受け、送り出されました。大宰大弐として赴任した藤原高遠は水城で大宰府の印と鍵を受けとり、大宰帥大伴旅人は帰京する際に、水城で役人に見送られています
大伴旅人の登場です。今回は彼にまつわるちょっとしたお話をしたいと思ってるんです。こんにちは。
東門そばにある『水城館』館内に設置されたパネルにも、こんな興味深いお話がありましたので、↓
ざっと参照してみます。↓
鎌倉時代に書かれた平家物語に「水城の戸」と書いてあり、大宰府のランドマークとして認識されていました。『万葉集』には大納言昇進のため帰京する大宰帥大伴旅人と遊女児島の水城での別れのエピソードが載っており、水城が大宰府と外との境界だったことを示す
大宰帥大伴旅人そして遊女児島。ふたりが対峙する境界の内と外。
そんな旅人と児島の別れについては、
水城館前の広場に、こちらの碑と
それから説明書きが立っていましたので、
しっかり読んでみたいと思います。
730年、大宰帥大伴旅人は大宰府をはなれた。水城で旅人を見送る官人に交じって、遊行女婦児島がいた。別れに際し、二言の歌を贈った。これに和えて大伴旅人は返歌。これが二人の永久の別れとなった。都に帰った旅人は翌年66歳で亡くなった
贈った児島の歌がまずこちらと、↓
凡ならばかもかもせむを恐みと振りいたき袖を忍びてあるかも(あたり前ならああもこうもしようものを、恐れ多くて痛いほどにはげしく振りたい袖も我慢している)
それからこちら。↓
倭道は雲隠りたり然れども我が振る袖を無礼と思ふな(大和への道が雲に隠れあなたのお姿はやがて見えなくなるでしょう。それでも私が別れを惜しんで振る袖を無礼とお思いになりませんよう)
今度は旅人による返歌がこちらの歌と、↓
倭道の吉備の児島を過ぎて行かば筑紫の児島思ほえむかも(大和への道の途中の吉備国の児島を通ったならば同じ名の児島のことが思われるだろう)
こちらの歌。↓
ますらをと思へるわれや水くきの水城のうえになみだ拭はむ(涙などこぼさぬ立派な男子だと思っている私だが別れに際して水城の辺りに立ち、涙を拭うことだろうか)
うぅぅ。めんどくさ!じれったい!とか言っちゃうのは無粋ってもんですね。失礼しました。
それはさておき。物語の片方の主役「大伴旅人」について、まずwikipediaでおおまかな全体像を見ておくことにしましょう。↓
飛鳥時代から奈良時代にかけての公卿・歌人。
養老4年(720年)隼人の反乱の報告を受け、征隼人持節大将軍に任命され反乱の鎮圧にあたる。
神亀5年(728年)頃大宰帥として妻・大伴郎女を伴って大宰府に赴任。60歳を過ぎてからの二度目の九州下向。一種の左遷人事、あるいは、手腕を期待された人事の両説がある
続きます。↓
大宰府では山上憶良・満誓らとの交流を通じて筑紫歌壇を形成。赴任後間もなく妻を亡くし、後には異母妹の坂上郎女が西下。
天平2年(730年)大納言に任ぜられて帰京。翌天平3年(731年)まもなく病を得て7月25日に薨去。享年67。
和歌の多くは大宰帥任官以後のものである。酒をこよなく愛した人物として知られる。歌風は、大陸的風雅心・老荘的自由思想と位置付けられている。
酒をこよなく愛した人物!大伴旅人については例えば、サイト内『坂本八幡宮』の記事で触れたことがあって、↓
参照してみるとこんな具合。
遠い昔、730年に大宰師(大宰府政庁長官)だった大伴旅人が『梅花の宴』を開きました。
その時に詠まれた『梅花の句』は万葉集に収められ、その序文にある『初春令月、気淑風和(初春の令月にして、気淑く風和ぎ)』を典拠としたものが、元号『令和』なり
とのこと。その宴が開かれたという大伴旅人の邸宅(梅園)のあった場所が、この【坂本八幡宮】の敷地かも!?しれない!?
続きます。
境内の隅に『大伴旅人』の万葉歌碑。
「わが岡に さ男鹿来鳴く 初萩の 花嬬問ひに 来鳴くさ男鹿」
(意:萩の花が咲き初める初秋、牡鹿が牝鹿を求めて鳴く求婚の甲高い声にも、妻を想う自分の心を重ねずにはいられないのであった)
境内から少し離れた場所にも『大伴旅人』の歌碑を発見!↓
「世の中は 空しきものとしる時し いよよますます 悲しかりけり」
以上が『坂本八幡宮』での旅人のお話となります。続きまして、↓
『大宰府政庁前』にも「大伴旅人」の歌碑が一つ立っていて、参照すると↓
「やすみしし わご大君の 食国は 倭も此処も 同じとそ思ふ」(あまねく国土を支配なさる天皇の御領土は大和もここも同じと思います)
といった具合。はたまた、お次は福岡市東区香椎地区に鎮座する『香椎宮頓宮』でのケース。
こちらにある大伴旅人についての説明書きはこんな具合。↓
明治21年建立。三条実美の筆。神亀5年(728)大宰卿大伴旅人が香椎廟参詣の際に詠んだ「いざ子ども香椎の潟に白妙の袖さえぬれて朝菜摘みてむ」
大宰府からわりと離れた香椎までやってきてる!遠出も楽しむ旅人かな。
さて、長くなりましたのでお話の続きは次回に。よろしくお願いします。
【水城館】
福岡県太宰府市国分2丁目17