顔出しパネルに心惹かれて【福岡城むかし探訪館/福岡城05】
前回の続きです。↓
前回、福岡市中央区にある「中央区市民体育館」脇の小道から福岡城内へ忍び込み↓
目の前に広がる「鴻臚館広場」の辺りにぼんやり立ちつくし、↓
なんとなくまったりしていたのでした。こんにちは。↓
今回はその続きです。「鴻臚館広場」の周囲を反時計周りに散策していると↓
広場右奥のところに、下っていく坂道が見えたので↓
いったいなんだろうと思って近づいてみると↓
そこには、お濠に架かる『上之橋』の姿が。↓
ついでと言ってはなんだけど、そのまま『上之橋』を渡ってお濠を越えて遊歩道へ出てみたら↓
通り沿いに「平和台球場の記念モニュメント」が設置してあるのを発見。↓
ふーんといった感じで、そのままUターンです。野球は良く分からないから…。↓
それではダッシュで城内へ戻ることにします。↓
『上之橋』を再び渡って引き返すんですけど、『上之橋御門』があったであろう辺りを少し見学してみますね。↓
右へ曲がらずそのまま真っ直ぐ進むと↓
枡形のようにクイックイッとなっている。この石垣に囲まれたその奥の↓
ここら辺りに『上之橋御門』があったのでしょうか。↓
では再び橋のところから、↓
今度は右へ曲がって『鴻臚館広場』へ戻ります。↓
引き続き広場をぐるりと廻りつつ↓
途中でふらっと道を逸れて、先まで足をのばしてみると↓
『筑紫の館 万葉歌碑』なる歌碑を発見。↓
説明書きを読んでみます。↓
今よりは 秋づきぬらし あしひきの 山松かげに ひぐらし鳴きぬ
歌の意味は↓
天平8年(736)、新羅の国に派遣された外交使節の一行が筑紫の館へ着いたたときに、故郷の大和を望んで詠んだ歌。秋には帰る筈の旅路が、秋になったのにいまだ筑紫にいる悲しみ
ちなみに↓
「筑紫の館」はのちに「鴻臚館」とよばれ、外交施設の宿泊施設そして迎賓館を兼ねたもの
だそうです。
さらに先へ進んでみると↓
そこは「平和台陸上競技場」の裏手らしく↓
特になんてこともないので、再び「鴻臚館広場」へと戻ることにします。↓
奥に見えている建物が『鴻臚館跡展示館』で↓
そのまま少し首を右へぎゅいんと回転させて見えるこちらの建物が、『福岡城むかし探訪館』。↓
館の入り口前には、一緒に写真が撮れる顔出しパネルがあって↓
「ふくおか官兵衛くん」と「長政くん」が並んでいる。↓
すごく撮りたい!でも撮らない!
探訪館内へ入ってみると、↓
すぐのところに、いきなり黒田官兵衛の兜があって↓
これは『朱塗合子形兜』。↓
また、こちらは『へし切長谷部(レプリカ)』といって↓
織田信長から褒美に与えられたという名刀とのこと。
さらに『太鼓櫓』に関する説明もあって↓
説明書きには興味深いことが記載されていましたので↓
参照してたいと思います。↓
本丸の南西側に位置し、裏御門の西に隣接するように立っていた太鼓櫓。その名のとおり太鼓台が設けられていたようです
そして↓
太鼓櫓は大正5年(1916)に本丸裏御門とともに黒田別邸(福岡市中央区舞鶴)に移築されたとみられ、戦災によって多くを焼失
で、ですよ。↓
戦後、「潮見櫓」と伝えられた櫓のみが、下之橋御門の脇に移築されました。現在、『伝潮見櫓』と言われる櫓は、実は太鼓櫓であった可能性が高い
つまり『伝潮見櫓』は潮見櫓っぽかったので伝潮見櫓と呼んでたけど、ほんとは太鼓櫓っぽいよねということ!?じゃあ潮見櫓はどこ!?頭がぼーっとしてきた!!
館内には他にも
「西中島橋」「枡形門」の写真があったり↓
さらに色々と説明文が貼り付けてありましたので↓
まとめて参照すると、↓
黒田長政はもともと、最初名島城に入ります。ですが土地が狭いことを理由に、あらたに警固村福崎の地に7年をかけて福岡城を築城
(※名島城の記事はこちらでも!↓)
そして↓
福岡城を守るため、「筑前六端城」(若松城、黒崎城、鷹取城、益富城、松尾城、麻底良(まてら)城)を築きます。さらに支藩として秋月藩、直方藩を立藩
また↓
鶴が羽ばたく姿に似ていることから「舞鶴城」とも呼ばれた福岡城。大小47の櫓や10を越える城門。城郭の周囲には堀。南北(簗堀)や東(中堀・肥前堀)に新たな堀を築いて博多港や那珂川と結び、水を還流させました
さらに↓
当時入江で湿原化していた西の草香江は、博多湾と分離して大堀(現大濠公園)に。堀は現在も一部に残り、地下には石垣の遺構も公開されています
とのこと。(※草香江のお話はこちらでも!↓)
館内のど真ん中には、ミニチュア模型の福岡城が設置してあり↓
お城の全体像が見えるのはとても楽しいもの。といったところで、『福岡城むかし探訪館』をあとにして↓
城内をもう少し先へ進もうと思います。↓
お話の続きは次回になります。↓
【福岡城むかし探訪館】
福岡市中央区城内