暖簾は柿染。柿色暖簾を入り口にかける【博多風俗史遊里編】

昨年末に、かつて『柳町』であった福岡市博多区の大浜通り界隈を訪ねたときのことです。

電信柱に張り付けてある歴史小話の中に、

こんなお話を見つけたのであった。

当時の遊女に博多小女郎という絶世の美女がいた。遊女の頭をつとめた。ステータスとして「梯(はしご)の暖簾」の使用が許可された

梯の暖簾!?どういう意味!?その謎を解明するべく、あれこれ書籍を借りて読んでみたんです。

例えばこれまで、こちらの記事だとか、↓

こちらの記事で探してはみたものの、

結局いまだに分からず仕舞い。そしてつい先日も図書館へ行って、こんな本を借りてみたのでした。書籍の名は【博多風俗史遊里編】。

ついに謎は解明される!?さっそく読んでみましたので、今回はそのお話をしたいです。こんにちは。

さて書籍【博多風俗史遊里編】には、博多にかつて存在した遊郭『柳町』に関するお話がたっぷり記してあって、

その中から気になる箇所をいくつか参照させていただきながら(ありがとうございます)、お話ししていきたいと思います。

 

まず『柳町』という言葉についてはこんな記述がありました。↓

p2 秀吉がはじめて建てさせた遊郭は京都の萬里小路で、その辺りに柳の木が多かったので柳町。天正15年(1587)

黒田藩の『柳町』はといいますと、↓

p9 黒田藩の集娼政策で許された地区は、博多の北東のかたすみ、竪町の北側で現在の大浜小学校があるところ。下竪町を右に折れカギ型にちょっとまわって大門があり、それから石堂川の川べりまで

とのこと。そんな『柳町』のそばには、遊女の投げ込み寺だった『選擇寺』の姿。

そしてお寺の境内には遊女おゆき(雪友)のお墓がありました。ちなみに、↓

p19 江戸時代の博多柳町は天下に名をうたわれたに価するほど豪勢ではなかった

のだそうです。また遊女といえば、博多の歴史に残る遊女(伝説!?)がいて、そのうちの一人が『檜垣』。以前日田街道を辿った時に、

二日市に流れる白川そばに立つ説明書きに、彼女の名前を見つけました。それはこんなお話で、↓

平安時代、この近くにかつて優雅で名の通った檜垣媼が住んでいました。ある時、大宰大弐藤原興範が水をもらおうとしたところ、媼は水を持って出てきて、こう詠ったのでした。「年ふれば わが黒髪も白河の みづはくむまで 老いにけるかな」

一方、書籍の方にはこんな記述が。↓

p309 檜垣 筑紫の遊女としてまずあげられるのは檜垣。筑紫白川でうたった歌で知られる檜垣。遊行女婦児島の流れをくみ、美しく教養があり和歌にたけ、大宰府の高官に愛された女性。10世紀ころ、高官のやかたに出入りし、その美と教養を高く評価された大宰府の遊女であったことはまちがいなさそう

さて、遊女『檜垣』のお次は、遊女『明月』についてのお話が。書籍によりますと、↓

p328 名娼明月。明月の本名はお秋。父は戦死し母は病死。いいなずけの金吾を追って筑紫に下った。金吾は父の仇をたずねて筑紫をさまよい、討ち果たすも子分に殺されてしまう。明月は帰路の途中、姪浜で悪党にだまされ柳町へ売られる。仏にすがろうと明月は万行寺へかよう。いまも万行寺には「明月の口から生えたという蓮の花」と「明月がしめた帯」が保存されている

明月尼のお墓のある萬行寺。↓

そして博多有名遊女ストーリー、最後は『博多小女郎』についてのお話。↓

p322 博多小女郎についてのもっとも古い記録は博多津要録(1690)。博多冷泉の津に唐船が入っていたころ、博多小女郎という美女がいて遊女の頭になっていた。博多小女郎は柿色のれんをかけるを許可された

おや。暖簾のお話が出てきましたよ。柿色暖簾。!?肝心の梯は!?続きます。↓

それから28年たって、近松門左衛門が博多小女郎と柳町の名を大きく宣伝した。博多小女郎は実在の人物ではなく博多柳町の人に創造された理想であり、遊女の崇拝する伝説的人物

さて博多『柳町』は、しばらく時を経たのち『新柳町』へと移転することになります。↓

p199 大正時代になると新柳町の体裁も整った。廊の入り口には石の門がある。拝山の筆になる「春風緑柳飛鳳凰」「夜雨青燈引鸚鵡」の対句が両側の門に彫り込んである。道の中央には桜の並木が植えられ、ぼんぼりの灯にてり映えている。大門を入ってすぐ右に巡査派出所、組合事務所、?糸学校があり、突き当りには娼妓診断書ができて、九州を代表する遊廓となった

というのが博多遊郭の歴史の流れ。(※新柳町についてはこちらの記事も!↓)

で、ですよ。一番気になるところの『梯の暖簾』なんですが!!

まず書籍内に暖簾についての詳しい説明がありましたので、その部分を参照させていただきます。↓

p13 「局にかくる暖簾、昔は花族の御家へ申し上げ、御ゆるされを蒙りてかけたり」「むかしは官家の免許を得ずのうれんかくること叶わず」。古く宮中の上級女中は御殿の中に一室をもっていて、これをつぼね(局)と呼んでいた。下級の女郎(端女郎)のことをのことを局女郎といい、その稼ぎ場所を局というのも、宮中のまねごと。宮中の局では部屋の装飾と仕切りに帳(とばり)を用いた。これが娼家ののれんににているところから、ご下賜品であるとの伝説が生まれたものと考えられる。端女郎の局の前には柳を日本植え、のれんを掛けた。のれんは柿染め。縫い合わせの二ヶ所に格子柄の爪結をつけた。博多柳町では、公儀から賜ったと信じて、柿色ののれんを入り口にかけた

つまり暖簾というのは、幕府から認められた権利!?のようなもの!?公的な営業許可証!?ということは遊郭内で独立営業ってこと!?うーん良く分かりません。あくまで遊女内でのステータス!?

暖簾はまあいいですよと。じゃあ『梯』とは。結局なに?柄のこと!?

ああああぁ謎はいっそう深まるばかりなのでした。完。

 

※書籍にはこんな一文もありましたのでご紹介。

明治時代の柳町は理想の遊女像を掲げるべく作家にお話を作らせました。それが博多小女郎であり、明月であり、染衣