妙心寺梵鐘に糟屋評造舂米連廣國の名【阿恵官衙遺跡】

前回に続きます。こんにちは。↓

前回はといいますと、福岡県糟屋郡粕屋町に鎮座する【阿恵日守八幡宮】を訪ねました。

どうして訪ねたのかというと、神功皇后にまつわるお話を聞いたからなんです。

それはかつて、神功皇后が出産のため、香椎から宇美へ旅をしていた道中のこと。↓

石に座って一休みして、そして時を尋ねたという『日守石』なる石が【阿恵日守八幡宮】にあって、また神社の由来にもなっている、そんなお話。↓

さっそく【阿恵日守八幡宮】を訪ねてみたものの、なんと!近くにもう一社【日守神社】があるらしい。そこで私は、え?どっちがどっち!?ってなったのでした。これが前回のあらすじです。

 

というわけで、今回はもう一社の【日守神社】を訪ねてみます。

ちなみに前回、【阿恵日守八幡宮】を訪ねるにあたり、福北ゆたか線の踏切を渡り↓

粕屋西小学校横の道を真っ直ぐ進んできました。↓

そして【阿恵日守八幡宮】へ向かうには、ここで左折するわけですが↓

今回は右折します。すると、そこには九州大学の農場が広がっており↓

注意書きが。↓

ここは現在農場なんだけど、かつて大昔には【阿恵官衙遺跡(あえかんがいせき)】という、糟屋郡のルーツとも言える場所だったらしいんです。

詳細について粕屋町のHPから参照させていただくと↓

【阿恵官衙遺跡】は、飛鳥時代から奈良時代(7世紀後半から8世紀)にかけての『筑前国糟屋評[郡](かすやのこおり)』の役所跡とされる遺跡です

九州大学農場内で発掘調査が行われ、その結果↓

ここには役所の中心施設である「政庁跡」、当時の税として集めた米を保管した「正倉跡」そして「古代の道路跡」が、良好な状態で発見されました

しかも↓

「政庁」「正倉」は建替えと増築が行われていたようです

とのこと。また、筑前国糟屋評の「評」というのは↓

現在も使われている「郡」という行政単位は、701年の大宝律令によって「評」から「郡」に変更されて今も続いているもの

ということらしく、したがって↓

現在の糟屋郡をさかのぼっていくと【阿恵官衙遺跡】にたどり着く。これが糟屋郡のルーツ

他にもお話があって、↓

698年に製作された『国宝妙心寺梵鐘(京都府)』に「糟屋評造舂米連廣國(かすやのこおりのみやつこつきしねのむらじひろくに)」の名が記されていました。
この「糟屋評造」とは「糟屋評の長官」という役職名のこと

はて、どうして糟屋と京都がつながるのか。ここが良く分からない。糟屋での役職名を京都のお寺の鐘に記すのはなんで!?なんでなんで。そこでネット検索をしてみたら↓

『観世音寺の梵鐘』と同じ鋳型から造られた兄弟鐘

といったつながりがあるようです。

 

(※観世音寺梵鐘のお話についてはこちらでも!↓)

ふーん、分かったようで分かってません。仕方がないのでスルーします。

ちなみに、この梵鐘は現在、京都市右京区の「妙心寺法堂内」に保管されていて、有料拝観で見ることができるとのこと。↓

それではあらためて、本来の目的地【日守神社】を目指しましょう。

【日守神社】が鎮座する場所は、ちょうど【阿恵日守八幡宮】から須恵川を渡ったすぐのところ。「阿恵橋」を渡って↓

住宅地の細い道を進むと↓

猿田彦の石碑があって↓

その向かいに【日守神社】が鎮座。↓

境内に入ると少し奥に鳥居があって↓

こちらは拝殿。↓

さらに奥は公園になっています。↓

祠と石碑。↓

入り口のところに案内板があったので

読んでみると、こんな具合。↓

奈良時代聖武天皇の時代、九州には11の駅家(馬と人夫の宿)が置かれていました。ここ「夷守(日守)」にも駅は設置されていて、交通の拠点でした

また万葉集には↓

草枕旅ゆく君を愛しみ 副いてぞ来し 志可の浜辺を

という歌が詠まれており、その解説としては↓

大伴旅人(大宰府長官)が病のときに、奈良にいる弟と姪が見舞いにやってきてくれました。病が治ったので、奈良へ戻る彼らをここ日守まで見送りにきました。そして別れの宴で詠んだのが先ほどの歌

とのこと。ということはですよ、ひょっとして大伴旅人氏、そのお見送りのついでに、↓

ひと休みとか言って日守石にちょっと腰かけてみたかもしれない。で、結局のところ、かんじんの日守石ってどれ!?

(※阿恵官衙遺跡のお話はこちらでも!↓)

完。


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【阿恵官衙遺跡】

福岡県糟屋郡粕屋町阿恵255-1

【日守神社】

福岡県糟屋郡粕屋町仲原2895