竹久夢二は何だか扱いにくいお客様【柳町梅ヶ枝屋】

つい先日のこと。高杉晋作が身をひそめたという『常盤館跡』を博多区千代地区に訪ねたお話をしました。↓

その中に、高杉晋作はこの『常盤館』をベースに、そばに流れる石堂川(御笠川)に架かる石堂橋の関所を抜けて、柳町【梅ヶ枝屋】へ向かったというエピソードがあったんです。

柳町は現「博多高等学園」界隈にあって、のち1909年には新柳町として中央区清川地区へ移ったのだそうです。(新柳町は1958年の売春防止法施行により、その歴史に幕を閉じた、とのこと)

また、以前訪ねた中呉服町の選擇寺にも【柳町】にまつわるエピソードがありました。↓

こちらは3号線沿いから御笠川を挟んで「博多高等学園」を望んだ風景。↓

さて今回、かつて【柳町】があったという「博多高等学園」そばを歩いてみましたので、そのお話をしたいです。こんにちは。(写真撮影の時期はまちまちです)

住所で言うと、博多区下呉服町。

通りに立つ電信柱には、歴史の説明書きがあちこちに張り付けられており、

そのネタの豊富さからも、ここが歴史を積み重ねた土地柄だということを感じさせられます。

せっかくですので散策ついでに、

見つけた電信柱の説明書きをそれぞれ読んでいくことにします。

まずはこちらから。↓

竹久夢二、近松門左衛門を偲び、旧柳町を散策。夢二は近松作の『博多小女郎波枕』の舞台になったこの町を感慨に耽りながら歩いたと思われる

とのこと。それからこちらの電信柱を見てみると、↓

竹久夢二のお話の続きが記してありました。↓

柳町を訪ねたあと、夢二は天神町の白蓮に会いに、伝右衛門邸(福銀本店)を訪ねました。柳原白蓮「見せられない日記」によれば、夢二は何だか扱いにくいお客様と思った印象とのこと

白蓮、辛辣!!(※伊藤伝右衛門邸についてはこちらの記事!↓)

では先へ進みます。↓

今度は高杉晋作のお話が。↓

読みます。↓

高杉晋作、柳町(現・博多高等学園)に潜伏。平尾山荘から移動した晋作は、若松屋で落ち合う筈の月形洗蔵を待ちくたびれて、石堂橋を渡り石堂口門を通り、海元寺角を右折、竪町筋を400m北上し、柳町の大門をくぐり、梅ヶ枝屋へ

この辺りにかつて柳町の大門があったと。お次はこちらの電信柱。

引き続き、晋作のお話のよう。↓

晋作は遅れてきた同志と梅ヶ枝屋で合流。深夜桜の裏から石堂川に降り、大浜海岸(現・那の津通り)を西へ、対州(対馬)藩邸まで1200mをジョギング

晋作、ジョギング!!続きます。↓

藩邸で待ち受けていた勤王派御典医鷹取養巴らと会合。のち馬関へ向かう

とありました。(※鷹取養巴についてはこちらの記事も!↓)

次の電信柱は、歌舞伎の話題へ移ります。↓

こんな具合。↓

『恋湊博多調』。浄瑠璃『博多小女郎波枕』を歌舞伎に移植、江戸中村座で初演

すぐそばには、『博多小女郎』の由来が記された電信柱。↓

読みますね。

古の海外貿易港だった博多冷泉津の須崎浜周辺に日本最初の遊女町が出来た。その当時の遊女に博多小女郎という絶世の美女がいて、遊女の頭をつとめた。博多小女郎にはステータスとして「梯の暖簾」の使用が許可された

梯の暖簾!?梯を使う特別な部屋ってこと!?「梯の暖簾」という暖簾!?検索してみても分からず。詳細はまたいつか。

辺りには他にも多くの電信柱が立ち並び、それぞれにまた別の歴史の話題も添えられています。

 

例えば、平家の末裔のお話だとか、↓

著名な石工事を成してきた国松家のお話があったり、

それから

第二次大戦後に出来た巨大難民キャンプのお話もありました。話のネタはつきそうにありません。すごい!下呉服町!歴史の玉手箱やー。

といったところで、今回のお話はおしまいです。ありがとうございました。

【大浜公民館】

福岡市博多区下呉服町10-15