乙丑の獄はばりばりやばい【養巴町通り】

先日(去年の夏から秋頃)、福岡市中央区の大名地区を風のように駆け抜けていたときのことです。

ふと目に入った通りの名前に、なんだか引っかかりを覚えたのであった。

電信柱に通りの名前が書いてあって、そこには『養巴町通り』と記してある。なに養巴って。

養う巴(ともえ)。ちなみに「巴」っていうのは、渦巻きの模様の意らしいです。

どうにも意味が分からない。そこでインターネットで調べてみると

養巴というのは鷹取養巴。福岡藩のお医者さん。とありました。おや?そう言われると、なんか聞いたことがあるかも。↓

と思って、自サイト内検索をバシッときめたところ、こんな記事がヒット。福岡市博多区の『妙楽寺』を訪ねた時の記事です。↓

あらためて確認してみると、確かにその中に「鷹取養巴」の文字があります。

さっそく引用してみると↓

江戸時代の医者「鷹取養巴」のお墓が『妙楽寺』にあります

とのこと。でもこれだけじゃあね。

そこであれこれネット検索を駆使した結果(参照させていただきます。ありがとうございます)、こんな情報が。↓

福岡藩医鷹取秀綽の元に生まれる。平野國臣とともに月照の薩摩行を助ける

(※「平野國臣」についてはこちらの記事で!↓)

(※また「月照」については、こちらの記事で!↓)

続きます。↓

福岡藩の参勤交代阻止を建言。五卿の大宰府移転を斡旋。「乙丑の獄」に連座し「月形洗蔵」らと「枡木屋」にて処刑

とありました。

(※「月形洗蔵」についてはこちらの記事!↓)

(※「乙丑の獄」についてはこちらと↓)

(※そしてこちらの記事でも!↓)

(※「枡木屋」についてはこちらの記事!↓)

つまり、鷹取養巴という方は、江戸時代に尊王攘夷派として活躍された藩医であったよ、ということみたい。ならばですよ。

ここであらためて「乙丑の獄」についてみてみたい。wikipediaからの参照です。↓

乙丑の獄は、藩主黒田長溥による勤皇派弾圧事件。福岡藩は藩主黒田長溥の下「尊王佐幕」を掲げ、幕府を助けながら天皇を尊ぶ公武合体論に似た政治運動を進めていた。これに対し、家老加藤司書・藩士月形洗蔵・中村円太・平野国臣らを中心とする筑前勤王党は「攘夷を進め、幕府を打倒し政権を天皇の下へ戻すべし」という尊皇攘夷論を唱え、藩主に対し決意を迫っていた

鷹取養巴も筑前勤王党だったのかな!?続きます。↓

筑前勤王党は、相次いで凶悪な暗殺事件を起こす。佐幕派の復権により藩論は幕府恭順となり、勤皇派弾圧の運びに。藩士ならびに関係者140名以上が逮捕。加藤・建部以下7名が切腹、月形・海津以下14名が桝木屋(福岡市中央区唐人町)で斬首、野村望東尼以下15名が流罪という大弾圧が繰り広げられた

斬首された14名の一人が鷹取養巴。で、ですよ。どうして大名の通りにその名がついているのか。

それはこの辺りに住んでいたから。そして今は『妙楽寺』に眠る。


【養巴町通り】

福岡市中央区大名1丁目