我は西行天なり(通称かみなりさまだよ)【西門鬼子母神】
前回の続きです。
前回、かつて柳町と呼ばれたという、下呉服町地区の博多高等学園界隈を歩いたお話をしました。
辺りを散策しながら電信柱の歴史物語を読み、ちょうど御笠川へ戻ってきたところまでが前回のあらすじとなります。
今回はその続き。御笠川沿いを軽く散策してみたいと思います。こんにちは。
ところでこの御笠川沿い。高杉晋作も柳橋へと向かうにあたり、テンション爆揚げ全力全速力で駆け抜けたのでしょうか。
それはさておき、目の前には御笠川にかかる恵比須橋。この橋、意匠が凝っている。
恵比須橋のすぐそばの角にはこんな碑が立っており、↓
『福博第二十番札所』と記してあります。そばへ寄って見てみると、敷地反対側にも碑が立っており、こちらには『下堅町 渡辺豊次郎』とありました。ぽかーん。
碑が立つ敷地の奥を見やると、そこにはどんとお堂の姿があって、
こちら『第十九番霊場 下堅地蔵尊 地蔵大菩薩』、なんだそうです。
さらにお堂の左隣りには鳥居が立っていて、鎮座するのは『恵比須神社』。もりもりもりもり盛りだくさんである。↓
では先ほどの恵比須橋を渡って、御笠川を越えることにします。↓
そこから川に沿って引き続き南へと歩いてみたら、
ちょうど千代地区の辺りに今度は『西門鬼子母神』と記された場所を発見!↓
そばに説明書きがありましたので、↓
ざっと読んでみるとこうありました。↓
西行天由来。形状を見ると鬼神と思われるが不明。当地一帯は昭和時代、旅館や料亭が軒を連ね、その一軒の、西門橋付近の料亭入り口に西行天が祭祀されていた。戦争半ば、川沿いの家屋は強制退去に。西行天の行方やいかに。すると靴屋の夢枕に「川の中から引き上げてくんない!?」とのお告げが。そこで無事に引き上げ自宅に奉安。そののち時代とともに行く場所を転々とし、最終的に当地に設置
だそうです。だけどもだけど。西行天ってそもそもなんなんです!?イコール鬼子母神ってこと!?検索しても分かりませんでした。
(※鬼子母神といえば、こちら太宰府市坂本地区『オカッテンサン』の記事だとか、↓)
(※また東京雑司ヶ谷地区『雑司ヶ谷鬼子母神堂』の記事もどうぞ!↓)
といったところで、一連の御笠川巡りのお話はここでいったんおしまいです。ご清聴ありがとうございました。
(写真の撮影時期はまちまちです。お願いします。敬具)
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【西門鬼子母神】
福岡市博多区千代2丁目18-16