金印は今日も怪しく輝くのか【浄満寺】
先日【浄満寺】を訪ねましたので、そのお話です。こんにちは。
【浄満寺】は、福岡市中央区地行の明治通り沿いにあって
通りの向こうには【金龍寺】の姿が見えます。
こちらが【浄満寺】山門で↓
そばには『亀井南冥・昭陽両先生墓所』の石碑。↓
入り口のところに説明書きがありましたので、読んでみたいと思います。↓
天正元年(1573)の開基とされます。境内には医師で儒学者で福岡藩の藩校「西学問所(甘棠館)」の館長であった亀井南冥と、その長男の昭陽ら亀井一族の墓があります。
また↓
南冥は天正4年(1784)、志賀島で発見された金印について考証した『金印弁』を著述したことでも知られています。
ちなみに↓
亀井家の門下には広瀬淡窓、平野國臣(→時代の先を駆け抜け過ぎて【西公園/平野國臣像】)、高場乱(→講演会に参加してサイン欲しかった【人参畑塾跡】)らがいます。
とのこと。
さらに案内板には
【浄満寺】は浄土真宗本願寺派に属し、寛永12年(1635)那珂郡春吉村(現在の博多区)で開基されました。承応3年(1654)に福岡大工町に移転、さらに寛文11年(1671)に現在地へ移転したと伝えられます。境内には、儒学者で医師の亀井南冥とその一族の墓があります。
そして↓
亀井南冥は、西学問所甘棠館(→火の元まじ注意【西学問所(甘棠館)跡】)の初代館長であり、志賀島の金印が本物であるとの「金印弁」を著して、金印を保護しました。
こちらが本堂。↓
【浄満寺】は、亀井南冥を筆頭にしたその一族のお墓があることで良く知られていますが、ではそれがいったいどういうことなのか。気になりますね。
そこで、亀井南冥そして昭陽の親子の詳細についてwikipediaを参照してみました。↓
亀井南冥は寛保3年(1743)、筑前国姪浜で医師の子として生まれます。唐人町で開業したのちの天明4年(1784)に藩校甘棠館の初代館長になります。
その後↓
派閥争いによって蟄居禁足処分を受け、また甘棠館が焼失して廃止となってしまいました。
のちに息子の昭陽を中心に私塾として「亀井塾」が開かれました。南冥もそこで指導にあたったけれど、文化11年(1814)自宅の失火により死去してしまいました。
なんとも数奇な亀井南冥の人生。
なにはともあれ、彼の主張のおかげで、現在も金印を目にすることができるともいえるみたい!?
肝心の金印はといいますと、現在、福岡市博物館に展示されています。
【浄満寺】
福岡市中央区地行2丁目3-3