須恵目薬の名は全国へ【須惠町立歴史民俗資料館02】

前回の続きです。↓

前回、糟屋郡須恵町にある【須惠町立歴史民俗資料館】を訪ね↓

資料館入り口に置かれたSLを目の前に、なんとなくモジモジしていたのでした。こんにちは。

それでは今回も続きます。さっそく入館したいと思います。↓

スリッパにはきかえて、館内へ。もうすでに懐かしい雰囲気。昭和!最高!

写真許可ばっちりとりました。↓

1階の展示室から見ていくことにします。

『昔の遊び道具』。私も持っていたあのファミコンが!!昔の遊び道具とよばれている!!衝撃的。悲しみ。↓

そういえば!こんな思い出が。カセットしか持ってない子と、ファミコン本体しか持ってない子がいたんだけど、みんな今でも元気にしてるかな。↓

さてこちらの説明書きを読んでみると↓

こんなお話がありました。↓

須恵町最古の遺跡は今から1万数千年前にさかのぼります。乙植木山城戸古墳からは石器類が見つかり、若杉山山麓には古墳が作られ、牛ヶ熊遺跡は玉製品の工房跡だと分かりました

そしてこちらの説明書きには、

こんな記述。↓

建正寺は最澄が開基したと伝えられていて、まつわる品々が残っています。観音堂の裏山から経筒が出土し、伝教大師堂には伝教大師坐像があります

美。↓

迫力もあって↓

素敵ですね。↓

「高鳥居城」。標高381mの山頂に築かれた中世山城。秋月種実によって落城。

(秋月種実といえば岩屋城の戦い。こちらの記事もどうぞ!↓)

「須恵焼」に関する説明書き。↓

読んでみると↓

須恵焼は江戸時代に肥前陶磁の影響下で開窯、明治時代に閉窯。福岡藩の新藤安平が個人的に開始し、福岡藩唯一の磁器御用窯として発展

とのこと。須恵器ではなくて「須恵焼」である。↓

それでは2階へまいろう。↓

福岡藩磁器御用窯跡とは、↓

こういうことだそう。↓

筑前で最大の磁器の窯跡。福岡藩の藩窯となり、黒田の殿様用に焼かれた藩用物は江戸を始め各地の領主などに筑前焼もしくは須恵焼として贈られました

そのまま先の部屋に進んでみたら、そこには目薬の資料がたくさん並びます。↓

「田原養全貞粛」。↓

どんな人かっていうと、こんな人。↓

それまでの漢方眼科に蘭学を取り入れた人物。西洋眼科を学ぶため長崎に遊学しました

眼にまつわるお話。↓

読んでみます。↓

須恵村・上須恵村には高場氏・田原氏という黒田藩の両眼療名医がいました。江戸後期の田原氏は江戸4大眼科の一つに数えられました

高場氏というのは、人参畑の高場乱(↓)と関係があったりなかったり!?

 

たしか眼科医の娘だったと聞いたような気もしますけど!?

説明書きは続きます。↓

目薬の製造元も数軒あって、須恵の目薬並びに眼療医の名声は全国に響きました。患者のために大きな宿場町が形成されました

上須恵眼療宿場図。↓

須恵町の町名の由来は、須恵器からという一説も。↓

ちなみに「須恵器」と「須恵焼」の違いは、

こういう具合。↓

「須恵器」は古墳時代に朝鮮半島から伝わった技術で作られた古墳時代から平安時代までの陶質土器全てのこと。「土師器」は、弥生土器の系統を受けた素焼きの土器。そして「須恵焼」とは、江戸から明治に続いた筑前の磁器。藩の後ろ盾を失った明治維新後、途絶えました

だそうです。それから1階に下りたところで、↓

ようやっと館内の見学は終了です。見応え充分。須恵町がぐっと身近になりました。↓

このまま館を出てからも、もう少し須恵町界隈を散策してみるつもりですが、そのお話は次回に。よろしくお願いします。↓


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【須惠町立歴史民俗資料館】

福岡県糟屋郡須惠町上須惠21-3

※開館日・開館時間は要確認でお願いします

須恵町HPはこちらから