おもしろきこともなき世をおもしろく【野村望東尼】

福岡市中央区の平尾地区を走る「筑肥新道」。その通りの脇に出ている案内板のところから、そっと住宅街の中へと入っていくと↓

山荘通りの一角に、きれいに整備してある広場があって、↓

その広場の片隅に古い木造建築が建っているんです。↓

こちら【野村望東尼山荘跡】。野村望東尼っていうのは女性の名前で、読み方は「もとに」もしくは「ぼうとうに」。

つまりここは望東尼という人が住んでいた山荘で、それが今でもこうして残っているというわけです。

 

まず望東尼という方はいったいどんな人物なのでしょう。

ネットや本でお話を聞いたり調べてみたりしてみたところ↓

野村望東尼は福岡藩士の二女として生まれます。もとの名前は「浦野もと」。17歳で結婚したあと離縁し、野村新三郎貞貫と再婚したので名前は「野村もと」に

下の写真は、福岡市中央区赤坂の坂の上にある『野村望東尼生誕地』の石碑。ここから少しだけ離れたところにあります。↓

また、彼女は幼少期より多方面に才能をのばし↓

特に歌詠みに力をいれ大隈言道を師事。歌を詠むことは、もはや生活の一部だったといいます

とのこと。(※大隈言道のお話はこちらも↓)

結婚し生活がようやく落ち着き始めた頃、この【平尾山荘】にて隠棲生活を開始。↓

その後、望東尼は夫と死別。将来を案じた彼女は福岡市博多区にある『明光寺』(↓)で剃髪し仏門に入ることに。

『招月望東禅尼』の誕生です。望東尼54歳。『明光寺』(↓)。

だがしかし!そんな彼女を、時代の不穏な空気が襲います。押し寄せる外国艦隊、倒幕運動。尊王攘夷の大きなうねりが望東尼の元へもやってきたのでした。

 

歌の師である大隈言道を訪ね上洛したのを機に、大きな時代の変化を肌で感じた望東尼は、帰福後、幕末の志士たちと積極的に関わっていきます。↓

若き革命家たちを山荘に匿い支援し応援する。しかし、こうした行為は福岡藩にとって非常に不快。

結局、望東尼は『乙丑の獄』と呼ばれる勤王派弾圧事件において

姫島へ幽閉されてしまうことに。

が、なんと無事に脱出。その手筈を整えたのが高杉晋作だったのではといわれていて、この事件後、望東尼は山口県で匿われることになりました。

そして山口の地で、病に侵されていた高杉晋作の最期を看取ることに。高杉晋作29歳。望東尼62歳。

それから数か月後、望東尼もまた、三田尻(現山口県防府市)にて波瀾万丈の一生を終えたのでした。

『おもしろきこともなき世を面白く 住みなしものは心なりけり』。

高杉晋作の有名な歌として知られていますが、下の句のほうは望東尼が詠んだのではという説もあるといいます。

望東尼のお墓は、山口県防府市『大楽寺』と、そして福岡市博多区『明光寺』にあると聞きました。『明光寺』(↓)。

(※書籍『西日本人物誌19 野村望東尼/小河 扶希子』を参照させていただきました)


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【平尾山荘】

福岡市中央区平尾5丁目2-28

【生誕の地】

福岡市中央区赤坂3丁目4-58

【明光寺】

福岡市博多区吉塚3丁目8