火の元まじ注意【西学問所(甘棠館)跡】

以前のことですが、福岡市中央区の唐人町にある【成道寺】を訪れたことがあります。(→少しもうっかりしていない八兵衛【成道寺/八兵衛地蔵尊】)↓

その時、そこからほんの少し離れた場所に【西学問所(甘棠館)跡】という石碑を見つけていたんです。↓

石碑は「黒門川通り」から少し入った細い道の脇にひっそり立っていて、隣りには『八橋神社』が鎮座しています。こちらは朱色がぐっと映えている。↓

ちなみに【甘棠館】というのは、福岡藩が藩の子弟教育のために設立した藩校のことなんだそうで、「甘棠」とはりんごの木のこと。「かんとうかん」と読むらしく、その由来は↓

かつて為政者がこの甘棠の下で立派な行いをしました。

そんな故事から名前がついたとのこと。

wikipediaの藩校で調べてみると↓

福岡藩には4つの藩校があって、そのうち1784年に新設されたのが西学問所の【甘棠館】と東学問所の【修猷館】。(同年、江戸には江戸学問所も。)

で、その【甘棠館】と【修猷館】という2つの藩校は↓

【甘棠館】の館長は徂徠学派の亀井南冥で、修猷館の館長は朱子学派の竹田定良。

お互いが強いライバル関係にあったのだそうです。



また、『亀井南冥』についてあれこれ参照してみますと↓

【甘棠館】が創設された1784年というのは金印が発見された年でもあって、亀井南冥は『金印弁』を著し金印の正当性を訴えたことで良く知られることになりました。

ですが↓

1790年の寛政異学の禁(朱子学以外は禁止だという幕府のお達し)によって、失脚することになります。さらに1798年には【甘棠館】の学舎が火事で焼失してしまいました。

その後【甘棠館】は再建されることなく、わずか14年の歴史で廃校となったのでした。

その後、亀井南冥は↓

【甘棠館】から離れたあと、私塾『亀井塾』を開いて、長男の昭陽とともに人材育成に努めました。しかし、今度は南冥の自宅が燃え、彼はその燃え盛る炎の中で72年の人生を終えたのです。

現在、福岡市中央区地行にある『浄満寺』には、亀井南冥・長男の昭陽をはじめとする亀井家一族のお墓があります。(→金印は今日も怪しく輝くのか【浄満寺】)↓

また、『甘棠館跡』の石碑隣りに鎮座する【八橋神社】について調べてみますと(福岡市中央区のHP内【八橋神社の初午祭】を参照)↓

天明の頃(1781-1789)、京都の『伏見稲荷大社』より勧請され、もともと『鳥飼八幡宮』の境内にありました。

そしてのちの1911年に現在の地へ遷座されたと。(→結んであるのを解きたくなることもある【鳥飼八幡宮】)↓

また口伝によれば↓

桝木屋町(現唐人町二丁目)で起こった火災では、突如風向きが変わって町内の全焼をまぬがれました。また1882年(明治15年)の火災でも、大事に至らず鎮火したとされています。

さらに第二次世界大戦においても戦火に遭わず町が残ったことから、【八橋神社】は「火魔除け」「開運」「商売繁盛」の神として大切にされています。

ということみたい。

でも、この辺りはたしか、火事で焼失した【甘棠館】学舎の跡地。

時は流れ、しばらくのちに「火除け」の神さまがやってきて↓

そして悲劇の地は奇跡の地になったのであった的な感じかもしれないし、そんなことないかもしれない。


【西学問所(甘棠館)】

福岡市中央区唐人町3丁目3-2