いのししが出たら私はもうだめだろう【天福寺】

前回、幕末の勤王志士であった「加藤司書」が眠るという『節信院』を訪ねました。↓

そしてその訪問の際、加藤司書は『節信院』そばの大博通り沿いにあった【天福寺】で切腹した、ということを知りましたので

『節信院』から足をのばして、さっそく訪ねてみたんです。

すると、そこには石碑が建てられており、【天福寺】は現在、福岡市城南区片江に移ったと記されていました。↓

ですので、日をあらためまして、福岡市城南区の片江地区へさっそく向かったのであった、というのが今回のお話です。

 

住所を前もって地図で調べてみますと、【天福寺】というのはどうやら油山の麓っていうか中腹までもいかないけど、ちょっと登ったくらいの場所にあるみたい。↓

では【天福寺】へ出発です。まず福岡市城南区にある堤の交差点から↓

「油山観光道路」を油山へ向かって南下します。↓ 

その道中でなんとなく右に曲がったりしてみたり↓

とにかく山を目指していたら↓

通りの脇に祠があって↓

ここからさらに先へ進むと↓

そこは【片江風致公園】。↓

公園横の小道を通っていたら、左手に『大慈観音跡』があって↓

さらに先へと進むと、こちらが【天福寺】。無事に到着することができました。↓

山門をくぐって、お邪魔します。本堂。↓

福岡の街並み。↓

山が迫ってきているよ。↓

お寺の境内には特に案内板など出てませんでしたので、wikipediaの天福寺の項を参照したいと思います。↓

【天福寺(てんぷくじ)】は、臨済宗妙心寺派に属する寺。 天福元年(1233)、高陽和尚が開山。 聖福寺の門外塔頭寺院として博多区冷泉町に位置。 昭和58年(1983)に油山(城南区南片江)に移転

そして↓

乙丑の獄で黒田藩家老加藤司書が切腹した寺であったことから、山門脇に「すめらみくにのもののふは…」の歌碑があります。

また貝原益軒の『筑前国続風土記』に記されている西油山天福寺は、福岡市博物館によれば現存しない謎の寺とされているので、当寺とは別の寺である

とのこと。謎の寺!!こっちのお寺も気になったので調べてみたら(※書籍「ふくおか歴史の山歩き/江上智恵」から参照させていただきます)↓

油山には東油山泉福寺と西油山天福寺があったけど、天福寺は脊振山の僧侶との争いで廃絶。山中には今でも建物跡が埋もれています

興味深いお話です。さて山門脇の歌碑には↓

皇御国(すめらみくに)の武士(もののふ)は いかなる事をか勤むべき 只(ただ)身にもてる赤心(まごころ)を 君と親とに尽くすまで

加藤司書作の筑前今様。↓

ここからさらに油山山頂を目指せるみたいだけど、どういう具合なのか私はさっぱり知りません。↓

とりあえずさきほどの【片江風致公園】へ戻って地図をチェック。↓

こちらの【風致公園】には、文学碑がたくさん建ってて、見て廻るのが楽しいらしいんだけど↓

なんか、いのししとか蛇とか蜂が出るとかいうし↓

それでも頑張って廻ってはみたけれど、気もそぞろであった。↓


【天福寺】

福岡市城南区南片江4丁目40-30