東門ルートは都からの官人赴任ルート【官道01】
先日のこと。久しぶりに福岡県太宰府市の水城方面へと向かっていたら、
道路の真ん中に説明書きが立っていたんです。
これこれ。以前の訪問時にも読んだことはあるんですが、
今回、復習も兼ねてあらためて読んでみたいと思います。↓
博多湾から入って福岡平野の最奥をふさぐ水城には、中央の御笠川をのぞいて東西2ヶ所に切り通りがあり、どちらにも礎石があることから門があったとされてきました。発掘調査によって、切通しの南北延長線上で古代の道路跡が複数発見され、切通しは水城を通過する道路と門であることが分かりました。現在、東側を東門跡、西側を西門跡(太宰府市吉松、大野城市下大利)と呼んでいます
現在立っている場所は東門のほうの跡そば。続きます。↓
東門から北に向かう道は、北に対して45度ほど西に向いたほぼ直線で、約10km直進して現在のJR博多駅のある付近の博多海岸(博多遺跡群)に至っていました。また門から南には現在の関屋交差点付近を経由して約2kmで大宰府政庁に到達していました
こちらが、博多海岸へと続く東門ルート(と西門ルート)の道筋。↓
説明書きは続きます。ここからは西門ルートのお話。↓
西門から北に向かう道は、北に対して55度ほど西に向いたこちらも直線で、約12km進むと鴻臚館(古代の迎賓施設)に至っていました。南へはやはり直線で、約2kmで大宰府条坊(古代大宰府の町の区切り)の南端に接続していました
続きます。↓
西門を通過するルート上では、7世紀(西暦600年代)後半の道路跡が発掘されており、東門のルートより早くから開発されていたよう。東門のルート近くでは741年以降に筑前国分寺と筑前国分尼寺が造営されたことなどから、奈良時代(およそ700年代)の中ごろ以降に開発が進み、大宰府のおもな入り口としての役割をになっていたようです
(※筑前国分寺についてはこちらの記事で!↓)
(※筑前国分尼寺についてはこちらの記事で!↓)
(※西門を訪ねたお話はこちらで!↓)
説明書きはもう少し続きます。再び東門ルートのお話に。↓
現在地はまさに東門から発した道が博多方面に向かっていた場所にあたります。この道は江戸時代にも主要な道路で、博多湾からは関門海峡・瀬戸内海を経て都に通じていました。江戸時代にはほぼ同じルートで日田街道が整備され、明治時代以降は国道3号(現在の県道112号)が敷設されるなど、古代以来、九州の重要な道路として利用され続けています
とのこと。へえ東門ルートは日田街道とほぼ同じルート!?だったらしい。(日田街道についてはこちらの記事で!↓)
これは興味深いですね!!そこでまず、東門ルートの基である東門跡をじっくり見てみることにしましょう。
左手に見えるのが『水城館』で、
ちょうどその右手にあたる一帯が、官道跡であり東門の跡。↓
まず官道についての説明書きがありましたので、
読んでみます。
大宰府の出入り口となった水城の西門・東門を通過する直線道。西門ルートは筑紫館(鴻臚館跡)と大宰府を結ぶ道で、外国使節はこのルートで大宰府に入った。東門ルートは博多に繋がっており、都からの官人赴任ルートとみられる。西門・東門ルートとも現在も市道として踏襲されている
東門ルートは官人赴任のルートであったんだよと。
東門周辺の様子。↓
東門をくぐった先の、官道跡がこちら。↓
脇に説明書きがあって、
読んでみると、↓
水城には東西二ヶ所に門があり官道が接続していました。官道は東門からほぼ直線的に造られ、外側は北西約10キロで古代の港湾施設とみられる博多遺跡群(JR博多駅付近)に至りました。奈良平安時代、この道は都と大宰府を結ぶ主要道路として、都から赴任した役人など多くの人が往来しました。なお東門を入って間もなく、官道から分岐して筑前国分寺へ入る道も造られました
港湾施設とされる博多遺跡群は現在のJR博多駅付近。参照は続きます。↓
官道の路面幅は約10m。東側溝は日田街道と重複
官道の両脇にそれぞれ東側溝と西側溝。
古代官道復元ライン。東門ルートはこのあと「久爾駅」それから「美野駅」を結んで博多湾へとのびていく。
こちらが博多へ向かう風景。↓
そしてすぐそばには東門跡の礎石の姿と説明書きが。
もちろんさっそく読んでみますが、そのお話は次回に。よろしくお願いします。
【水城東門跡】
福岡県太宰府市国分2丁目17