ついに西門を通る日がきたか01/02【水城06】

福岡県太宰府市にかつて築造された防衛施設、の跡である【水城跡】。

全長約1.2キロというその水城跡の土塁を辿ってみようと私は一念発起したわけです。

そこでまず【水城跡】の一番東端であり、また四王寺山の山すそにある【水城館】からスタートし↓

前回は「JR水城駅」そばの【水城断面広場】を見学したのであった。今回はその続きのお話です。(→電車だったら駅前水城02/02【水城05】)↓

さて、【水城跡】の土塁は東端から西へと向かう途中、御笠川のところで一度分断されていましたよね!?



そしてなんと、ここ【水城断面広場】前で、2度目の分断が入ることになるんです。↓

というのも、ご覧のとおり「JR鹿児島本線」ががっつり水城を横切っているのである。↓

つまり、線路の向こうには【水城跡】の土塁の続きがのびている。すぐそばなのに、すぐそばじゃない。↓

そしてここでも同じ問題が。このまま土塁に沿って真っ直ぐ進んでいくことはできないんです。線路があるからね。また迂回しなくてはいけないということ。↓

線路に沿って水城駅前通りを下り↓

そこから踏切を渡って住宅街へ入っていきます。↓

そしてじりじりと水城跡土塁との距離をつめていく私。

すると広場みたいなところに出て、案内板が立っていました。後ろは水城跡の土塁(大宰府側)。↓

案内板そばに大きな石があるんだけど、これはなんだろう。門のなにか!?分かりません。↓

では案内板を読んでみたいと思います。↓

水城には東西それぞれに門があって、ここには西門がありました。水城西門と官道は大宰府と外国を結ぶ重要な施設でした。西門には、外国からの使節団を留めた鴻臚館から大宰府につながる官道(公的な直線道路)が通っていて、使節団はこの官道を通って大宰府に出入りしました。

そして

外国使節の訪問が途絶えて以降は、官道としての必要性が低下し、次第に官道の側溝が埋まるなどしました。西門は廃絶した後も、少なくとも平安時代(12世紀頃)までは、水城の土塁を通り抜けるための道として使われました。その名残が左手に見える細い道。

その道がこちら。↓

そう、つまり!ここが西門跡ということでしょう。まずこちらの案内板から↓

読んでみますね。↓

ここは西門の跡です。平成6-8年に九州歴史資料館によって西門の周囲が発掘調査され、西門が8世紀前半と8世紀中ごろ以降の2回建て替えられたことがわかりました。はじめは実戦に備えた簡素な門。3回目の門は見かけ重視。2階建ての桜門。

また

外濠は見つかりませんでした。土塁西側の高台には望楼(見張り台)のような建物が見つかりました。

その西門跡の小道を抜けて、私は土塁の博多側(外濠側)へやってきました。ここにもそばに案内板があったけれど↓

以前にも読んだことのある【水城】の説明書きでしたので割愛。

それでは、土塁に沿ってこの奥へと入り、【水城】がJR鹿児島本線に分断されている場所へ向かいましょう。でもね↓

続きは次回に。よろしく哀愁。
(→ついに西門を通る日がきたか02/02【水城06】


【水城西門跡】

福岡県太宰府市吉松3丁目16-12