国分公民館には国分尼寺の礎石あり【国分共同利用施設】

図書館で借りた書籍『太宰府の歴史/著観世広』を読んでいたら、

「大宰府の成立と貴族社会」なる章の中に、↓

現在、国分尼寺のその姿は跡形もないけれど、礎石の一つが国分公民館に移されています

という興味深い一文を発見してしまったのだった。こんにちは。ああ一度でいいから見てみたい。というわけでさっそく国分公民館へ向かってみたお話をしたいです。

ちなみにですが、『国分尼寺』、それから

『国分寺』は以前訪ねたお話をしたことがあります!↓

では元気に向かいましょう。

 

国分寺前の交差点からゆるやかにのびる坂道「国分台通り」を真っ直ぐ進みます。

この通りは『太宰府市文化ふれあい館』を訪ねた時にも通った馴染みの坂道。

その坂道の中ほどの、通りの右手に国分公民館があらわれました。

入り口前にはコミュニティバスのバス停と「旧小字 松木」の碑。

右へ折れて奥へ向かってみると、

駐車場の端のところに説明書きと礎石の姿を発見。

読んでみるとこうありました。↓

礎石とは建物の柱の基礎に用いられる石。ここにある礎石はその大きさから大きな建物に使われたと考えられます。もともと道を挟んだ水田の土留めに使われていたもの

続きます。↓

花崗岩でできており、国分尼寺で用いられたとすると、金堂などの伽藍の中心になる建物で使われたのではないか

とのこと。では道を挟んだ向こう側へ向かってみることにします。

この辺り一帯が、かつての国分尼寺の跡地で、

前回訪問時の重複にはなるけれど、いまいちど説明書きを読んでみます。↓

天平13年(741)、聖武天皇は鎮護国家、五穀豊穣を祈るため、諸国に国分寺、国分尼寺建立を命じました。尼寺は正式名称を『法華滅罪之寺』といい尼僧10人と規定されました。

ここは筑前国の国分尼寺があった場所と伝えられるが、今は田んぼの中に礎石が1個残るのみ。なお(筑前)国分寺は東300mのところにある

とあって、その礎石が先ほどの公民館の礎石というわけです。

それでは引き続き坂道を上って、今度は東300mのところにあるという『国分寺跡』へ向かいましょう。

(※以前訪ねたお話はこちらで!↓)

ちょうどこの曲がり角辺りまでが、かつての国分寺の境内の境らしいです(のちほど見た写真図より)。

ここから角を右に曲がり、すぐのところで通りを左へ曲がったところに『国分寺講堂』。こちらは国分寺境内の一番奥に位置する建物。

現在、この跡地には礎石が3つ配されているとありました。↓

今度は国分寺正面へぐるり廻って向かってみます。

このスペースは、国分寺境内の右手に位置する、七重塔が建っていた場所。七重塔は現在、その復元模型が『太宰府歴史のふるさと館』に設置してあります。

こちらは、説明書きに添えられた国分寺の位置関係を示す写真図で、↓

さっそく参考にしてみますと、この辺りに中門跡があって、↓

それから公園内奥のあの辺りが、境内左端にあたるよう。↓

といったところで、じゃあそろそろ帰るかなって講堂の裏へまわってみると、

池が広がっていて、辺りはやっと秋めいた雰囲気。

終わり。

【国分寺共同利用施設】

福岡県太宰府市国分3丁目17-6