金の文字で書かれた金光明最勝王経【筑前国分寺跡】
前回の続きです。
前回、福岡県太宰府市国分地区にある『国分寺』を訪ねました。↓
そしてその流れで、隣りにある広場的謎スペースへ足を運んだのでした。こんにちは。↓
では続きます。広場の前に案内板が立っていましたので↓
さっそく読んでみるとこうありました。↓
国分寺跡。奈良時代に社会不安が続いたため、聖武天皇は僧寺と尼寺の官寺を諸国に置きました。創建については不詳だけれど、西海道の国分寺は756年の建立という記録があります
そして↓
創建当時の筑前国分寺は約192m四方の寺域に金堂・七重塔・講堂などの建物が整然と配置されていましたが、のちに衰退そして荒廃
約192m四方の寺域ということは、ここ一帯を指して『筑前国分寺跡』っぽい。ちなみに前回訪ねた『国分寺』の境内には「金堂礎石」の碑が立っていました。↓
では案内板から引き続き参照します。↓
筑前国分寺の建物は講堂・金堂・中門が南北に直線的に配置。金堂と中門は回廊で結ばれ、その内部に塔を配するという伽藍配置。平安時代には国分寺としての役割を終え、金堂のみが草堂的な建物として存続したのでした
また↓
国分寺の塔は七重で、その中には金の文字で書かれた金光明最勝王経一部が納められていたといいます。現在、塔の復元模型が太宰府市文化ふれあい館に展示されています
これは楽しみ!というのも、もともと私は「ふれあい館」へ向かう途中だったんです。一石二鳥!!
先述のお話と配置図から考えてみると、寺域の構造としては、「講堂」「金堂+七重塔」「中門」。そしてこの広場的スペースには「七重塔」があって、隣りの金堂とともに回廊で結ばれていた、という理解で合ってます!?え違う!?よく分かりません。↓
(※ここから追記↓)
後日訪ねた『大宰府展示館』の展示によりますと、
かつての国分寺はこういう配置になっており、
「講堂」「金堂 七重塔 中門」「南門」という構造だそうで
ここ空きスペースに七重塔があったということみたい。
(※ここまで追記↑)
では広場のほう(国分寺跡)へ近づいてみます。↓
こういうのは礎石っていうのかな!?↓
奥まで進んでみると↓
こちらは「国分寺講堂跡」。↓
全体を見てみるとこんな具合で↓
ここからさらに奥へ入っていくと↓
『若宮神社の杜』という説明書きがありましたので↓
読んでみたいと思います。↓
この杜は3本のムクノキの巨木で形成されています。近くの国分天満宮の祭りなどに枝を用いる以外は人の手がほとんど加わっていない森です
また↓
ムクノキの根元にある小さな祠は『若宮神社』とよばれています。石祠の前にある礎石は「筑前国分寺跡」のものが移されたとされています
とのこと。こちらかな?↓
隣りにはお堂があって『毘沙門堂』というらしく、↓
詳細について、書籍『麗し太宰府』から一部参照させていただきますと(ありがとうございます)↓
四王寺山山頂にある『毘沙門堂』は遠いので、代わりに里の近くに置かれたもの
ということだそう。↓
(※のちに毘沙門堂を訪ねたお話はこちらで!↓)
といったところで、そろそろ『ふれあい文化館』へ向かおうと思います。いざ!
お話の続きはこちらから。よろしくお願いします。↓
【筑前国分寺跡】
福岡県太宰府市国分4丁目3-26