門の礎一つ是を俗に鬼の硯石と云う【官道02】
前回の続きです。
前回、水城大堤跡に残る官道東門跡を通りかかったのをきっかけに、
この東門をのびたという官道(跡)は、いったいどういったルートを描いていたのか、そこのところが気になり始め、
さっそくあれこれ説明書きを読んでみたのでした。これが前回のあらすじです。
今回は、そもそもの東門跡自体についてディグっていきたいと思います。こんにちは。
ちなみに!東門跡は水城跡の土塁の切通しにあり、その水城の切通しには東門以外に水門とそれから西門があったといいます。
太宰府市教育委員会発行のパンフレット内イラストから、その様子を参照させていただくとこんな具合。(ありがとうございます)↓
また水城跡というのはいったいなんなのか、簡単に説明しますと↓
7世紀中ごろ、唐・新羅に攻撃された百済に、朝廷は支援を送ったけれど、白村江で敗退。唐・新羅の来襲を恐れた朝廷は、水城を始めとしていくつかの防衛施設を造りました。
水城というのは丘陵を防ぐように築かれた土塁。全長1.2キロ、幅77m、高さ約9m。土塁を通過する官道に東西の城門
といったもの。これまでブログ内でも数回にわたって、辿ってみたり探してみたりしたことがあります。(※例えばこれとか!↓)
その水城を通過する官道に立てられた門の一つである東門。その跡を今回見ていきます。
さて、水城跡が途切れて福岡日田線が走るこの辺りに東門があったとされていて、↓
その門の礎石がこちらに確認できます。
そばに説明書きがありましたので、ざっと読んでみますね。↓
水城の東西端に門が設けられました。ここは東門跡で、大宰府への玄関口。大宰府に赴任する官人たちは水城の門で出迎えを受け、また送り出されました。東門は藤原高遠の和歌に「岩垣の水城の関」と詠われていることから、門の両側に石垣が築かれていたと考えられます
続きます。↓
13世紀後半には門はなくなっていたことが分かっています。江戸時代には礎石が1つ残るのみとなっていました。平成26年の調査では、門の遺構は残っていませんでした。門外の脇に造られたと推測されるL字形に曲がる溝が確認されたことや土塁との関係から、門は礎石があるこの辺にあったと推測されます
とのこと。写真左から順に、○東門の石垣?○円形の柱座が造り出された礎石○江戸時代から知られる礎石。↓
そして一番奥のこの辺りにL字形溝。↓
離れて見るとこんな具合。↓
礎石の上に門柱が立っていて、↓
礎石上面の2つの穴は、門柱を据える穴と門扉の軸受け。方形の穴は扉と門柱との隙間を塞ぐ方立を据えます。↓
江戸時代の礎石のイラスト。↓
少しずつ東門の姿が分かったきた気がしてきました。ではここで、少し上から様子を眺めてみることにします。水城館脇からのびる階段を上って↓
ビュースポットから眺める水城と東門跡の様子。↓
といったところで、東門跡の見学はおしまい。次回は実際に東門ルートを辿ってみたいと思います。
よろしくお願いします。
【水城東門跡】
福岡県太宰府市国分2丁目17