水城の端からこんにちは 01/03【水城04】

割と久しぶりに、みんな大好き『水城』にまつわるお話をしたいと思います。

これまで【水城跡】と呼ばれる史跡のうち、3ヶ所を訪ねてきました。その華麗なる遍歴がこちら。↓

○上大利

そして

○大土居

さらに

○天神山

ちなみに

これら3ヶ所はどれも「小水城」とよばれるもの。だがしかし。

今回は【ザ・水城】つまり四王寺山の山すそにあるいわゆる「水城大堤」(の一部)を訪ねましたよ、のお話です。こんにちは。

福岡日田線を福岡方面から太宰府方面へ進んでいくと↓

水城3丁目の交差点から右手の道路沿いに、無料の「水城駐車場」があって↓

その奥に見えるのが、桜咲き乱れる水城の土塁跡。↓

まず水城駐車場の案内板から読んでみます。↓

こちらはかなり多くのことが学べる案内板でした。それはこんな具合。↓

7世紀中ごろの朝鮮半島は、百済・新羅・高句麗が争っていました。663年、唐・新羅に攻撃された百済に、朝廷は支援を送ったけれど、白村江で敗退

そして

唐・新羅の来襲を恐れた朝廷は、水城を始めとしていくつかの防衛施設を造りました

その水城というのは

丘陵を防ぐように築かれた土塁が水城。全長1.2キロ、幅77m、高さ約9m。土塁を通過する官道に東西の城門

その水城の断面はこうなっているらしい。↓

今回私が見て廻ろうとしているのは、この部分です。↓

駐車場から通りの反対側には『水城大堤之碑』があって↓

その隣りには『水城館』(↓)という資料館。現在は休館中でした。

このご時勢ですので仕方ありません。(※再訪問した記事はこちらで!↑)

また、ここからほんの少し南へ進むと

道真公で知られる『衣掛神社』(↑)が鎮座しています。

それでは、実際に水城跡を歩き廻ってみましょう。スタート地点は、四王寺山のすそにあるこの『水城館』。

 

というのも、ここが【大水城(水城大堤)】の東端にあたるんです。↓

そのスタート地点に立ってみて、さっそく目に入るのがこちらの↓

『東門跡』。水城には「東門」と「西門」そして水門の3つの門があったらしく、これはそのうちの1つ。↓

そばに案内板がありましたので↓

読んでみます。↓

水城の東西端には門が設けられました。都から大宰府への玄関口。大宰府に赴任する官人は水城の門で出迎えを受け、また送り出されました

また

東門の両側には石垣が築かれていたと考えられ、寿永2年(1183)までは門が存在していたようだけど、元寇のことを記した『八幡愚童訓』には、礎石があるのみという記述。つまり、13世紀後半には門はもうなかったということでしょう

門はこんな感じで立っていたみたい。↓

その門を通る官道。↓

案内板には

こうありましたよ。↓

大宰府の出入り口となった水城の西門・東門を通過する直線道。西門ルートは筑紫館(鴻臚館跡)と大宰府を結ぶ道で、外国使節はこのルートで大宰府に入りました。東門ルートは博多に繋がっていて、都からの官人赴任ルートとみられます。現在はどちらも市道です

つまりこういう感じで↓

そしてこういうこと。↓

お次は、道路を渡って、向こうに見える水城の土塁跡へ向かってみます。↓

でもね、ちょっと長くなりましたので今回はここまで。続きは次回に!↓


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【水城館】

福岡県太宰府市国分2丁目17