独りでいても淋しくない【人ありて/頭山満と玄洋社】
書籍『落日燃ゆ』を読んで興味を持った玄洋社について色々と知りたいと思い、

つい先日に書籍『玄洋社とは何者か』を読んだお話をしました。

その巻末には文献としていくつかの書籍が紹介されており、
その中の一冊『人ありて』を今回読んでみましたので、そのお話をしたいです。こんにちは。

ちなみに、巻末の案内には『人ありて 頭山満と玄洋社』についてこう記されていました。↓
読売新聞に連載されたものをまとめたもの。資料の裏付けを基に、玄洋社とその時代を反映
それからもう一冊追加したい。書籍『頭山満と玄洋社』も一緒に読んでみたんです。

というのも、こちらも『玄洋社とは何者か』巻末の文献紹介から参照させていただくと↓
『人ありて』の内容を豊富な写真資料で補った内容
と記してあったからなんです。ではさっそく各々参照させていただきながら(ありがとうございます)、気になる箇所をピックアップして読んでいきたいと思います。
まずは『人ありて 頭山満と玄洋社』から。
p16 頭山満生家跡には西新エルモールが建っている。道路向かいの西新交番わきの緑地公園では一本の大きなクスノキ
緑地公園についてはこちらの記事でご紹介したことがあります。
その時は、子どもながらに木を植える頭山翁に対してナマイキ言っちゃいました。すみません。
玄洋社の始まりについては↓
p43 玄洋社(向陽社)誕生に直接の影響を与えたのは高知の自由民権運動との出合い
そして
p44 玄洋社に集結した人々はほぼ例外なく西郷に敬慕の念を抱いていた
とのこと。この辺りは『玄洋社とは何者か』でも紹介されていました。それから
p87 結婚した1885年に頭山が住んでいたのが御所ヶ谷
御所ヶ谷を地図で見るとこの辺り。
続きます。↓
p90 1887年には「福陵新報」の社長に就任。社屋は旧向陽社の建物を改築。この時期、民権(箱田)派と国権(頭山)派の間で人脈のずれが生じていた可能性
社屋があったのは、現在、NTTドコモの社屋がある場所だそうで、
こちらも以前で通り過ぎたことがあります。そのお話はこちらの記事で!↓
ちなみに、この小路を真っ直ぐ親不孝通りへ向かって進むと、かつて西郷隆盛が隠れていたという『西郷南洲翁隠家之跡』へと辿りつきます。
では書籍のお話に戻ります。↓
p95 1888年、頭山満との関係が悪化していた箱田は自宅にて亡くなることに
また、↓
p97 大隈重信襲撃で知られる来島恒喜は、人参塾時代からの頭山の同志。福岡藩士に生まれる
続きます。↓
p106 黒田内閣において外相大隈重信による不平等条約改正案が多くの反対にも関わらず断行されるにあたり、玄洋社の来島恒喜は爆弾を大隈重信に投げつけ、自身は自決。
改正案はふきとび、大隈重信は失脚するも、のち首相に就任
その来島恒喜のお墓は崇福寺にありました。↓
頭山満については、↓
p117 頭山満は炭鉱事業に乗り出す。資金は例えば玉の井酒造といった資産家が提供していた
続きます。↓
p125 松方内閣において「民党」を議会から追い出すため、選挙干渉に乗り出す。頭山は松方を支持。非難の声があがり、政府に幻滅した頭山は国内政治から視野を海外に転じる
ことに。玄洋社そして頭山満の軸はアジアへと動きます。
p138 近代化を目指す金玉均ら「独立党」はクーデターを起こすも失敗。日本へ亡命。玄洋社は金を支援
また、↓
p148 朝鮮半島や清国の情勢をにらみながら、玄洋社は人材育成計画を練る
続きます。↓
p151 上海に語学学校「東洋学館」を立ち上げるも、約1年で閉鎖
そんな中。↓
p169 中国では革命の機運が高まり、頭山は孫文との関係を深めていくことに
(※孫文についてはこちらの記事も↓)
さらに、↓
p169 昭和に入るとエチオピアにまで関心を寄せ支援活動を行っている
一方、文化的な側面を見てみると、↓
p196 筑前琵琶の宗家初世の橘旭翁は頭山を頼って上京し曲作りに励んだ
(※筑前琵琶についてはこちらの記事も↓)
それからこんな興味深いお話もありました。↓
p210 豊臣秀吉が福島正則に贈った槍「日本号」を頭山が買い取った。それを大野仁平に贈り、その息子が安川敬一郎に売り、それを黒田家に献じた。黒田家は福岡市に寄贈し、博物館にて展示されている
(※日本号についてはこちらの記事も!↓)
といったところで、書籍『人として』のお話はここまでとなります。自由民権運動から始まり、国権主義、大アジア主義へ向かい、終戦直後、GHQによって解散。これが大きな歴史の流れ。
次は書籍『頭山満と玄洋社』を読んでいきますね。
p7 福岡市に根拠を置き続け、メンバーは旧福岡藩領域の出身者に限られた
それから『玄洋社社史』には高場乱について、↓
p22 乱は慷慨の女丈夫なり。気を尚ぶの女丈夫なり
とあるとのこと。また、↓
p22 乱の父正山は高場流眼科九世を継いだ。乱が15歳のころ、異母兄雲山が秋月藩医として招かれ、彼女が正山の後継者となる
続きます。↓
高場乱の人参畑塾にあって塾頭格の越智彦四郎、武部小四郎らが西郷隆盛の挙兵(西南戦争)を知って呼応したのが福岡の変。
頭山満らは萩の変に呼応するも逮捕される。乱は自宅で逮捕される
(※高場乱についてはこちらの記事も!↓)
そののち、↓
p32 西南戦争の翌年、頭山満らによって「向陽社」が設立される。翌年、改名し「玄洋社」が誕生
とありました。書籍には玄洋社にまつわる、例えば箱田六輔、来島恒喜、進藤喜平田といった人々の写真や資料が豊富に使われており、いっそう興味をひかれます。
また、
p35 1940年に岩田屋で「頭山精神顕揚展覧会」が開かれ、ゆかりの品が展示された
との一文も。さて、↓
p57 1911年、辛亥革命が起きると、頭山満らは辛亥軍を支援
続きます。↓
p58 第二革命失敗においては、隠れ家を斡旋したりして孫文を守った
とのこと。また朝鮮へと目を向けると、↓
p59 金玉均は清国の干渉を退け急進的な改革を実行しようとした。クーデターを起こすも倒され日本へ亡命。玄洋社は朝鮮独立を目指す金支援に力を注いだ
それからインドへも目を向ける。↓
p66 ビハリ・ボースはインド独立運動にかかわり日本へ亡命。日本側から国外退去命令を受けるも頭山満らが支援
さらにおまけにこんなお話も。↓
p74 月刊雑誌『冒険世界』の「現代日本の十二英傑」内の現代豪傑部門トップに頭山満が選ばれた。当時の国民人気の高さがうかがわれる
だそうです。以上、書籍より、気になるポイントを参照させていただきました。ありがとうございました。
駆け足で読んできましたが、目の前に広がる知らない世界を知る貴重な機会となりました。終わり。
※書籍『人ありて 頭山満と玄洋社/井川聡 小林寛/海潮社』
※書籍『大アジア燃ゆるまなざし 頭山満と玄洋社/海潮社』







