海は即日本海にして深碧【玄洋社とは何者か/浦辺登】
少し前に、広田弘毅の一生を描いた城山三郎著「落日燃ゆ」を読んだお話をしました。

作品の中で、例えば
広田弘毅は福岡での学生時代、玄洋社付属の柔道場で練習をし玄洋社に通って講義を聴いていた(p14)
だとか
東京での学生時代には、頭山満の紹介で、福岡出身の外務省の実力者山座円次郎と出会った(p19)
だとか、広田弘毅は人生を通して玄洋社との深いつながりがあったと記されていました。
(※広田弘毅のお話はこちらの記事も!↓)
そしてその玄洋社とのつながりゆえに、東京裁判において関係性が問題視されたというお話もあって(p287)、それは書籍から参照するとこんな具合。↓
玄洋社についてうるさくきかれた。頭山満の葬儀委員長をつとめたことも問題にされた(p200)
玄洋社というのは、↓
世間には過激な国権運動の政治結社というイメージ(p288)
それは過去に起ったこういう出来事もそのイメージ形成に大きく関係しているといえます。↓
明治22年、来島恒喜が外相の大隈重信を襲撃。その行為から玄洋社はテロリスト集団だという図式が形作られた(p52)
では実際の玄洋社とはいったいどういったものだったのか。今回、書籍『玄洋社とは何者か/浦辺登』を借りて読んでみましたので、そのお話をしてみたいです。

書籍内の気になるところを参照させていただきながら、読んでいきたいと思います。
まずは玄洋社という社名についてはこうありました。↓
玄洋社の玄は、玄界灘の玄(色の黒)そして、北に対する防衛の意から(p16)
それから玄洋社の成り立ちは、
自由民権運動団体からの派生であった(p19)
と。そして、
最終的には、戦後GHOによって解散させられた(p24)
というのが玄洋社のざっくりとした入り口と出口。大きな歴史の流れで見ると、↓
玄洋社は筑前勤皇党(党首は加藤司書)の精神を引き継いだものであり(p32)
はたまた
人参畑塾で知られる高場乱は玄洋社生みの母と呼ばれる(p36)
ともありました。ここで少し歴史をさかのぼってみますと、福岡藩は高場乱も巻き込まれた乙丑の獄によって、結果的に維新の波に乗り遅れることになったわけですが、
(※乙丑の獄についてはこちらの記事も!↑)
処罰を受けた筑前勤皇党(党首は加藤司書)の残滓というべき人々が、のち玄洋社の源になっている(p33)
そういうこともあって、↓
玄洋社は旧福岡藩の武士階級が主体であった(p58)
だそうです。(※加藤司書についてはこちらの記事で!↓)
(※高場乱についてはこちらの記事で!↓)
高場乱の人参畑塾へ若い時分に通っていたのが玄洋社代表の頭山満で、彼が崇敬しその精神の原点となるのが西郷隆盛(p47)。
(※頭山満についてはこちらの記事も!↓)
(※西郷隆盛についてはこちらの記事も!↓)
また、
自由民権運動から始まった玄洋社のその理論体系は、前身である向陽社(向陽義塾)で行われた(p43)
ともありました。玄洋社はのち、
東学党を通して日清戦争と関わり(p69)、それから満州義軍を通して日露戦争と関わる(p83)
わけですが、これらは、
日本の防衛と東洋の安定を目指したもの(p83)
であり、
玄洋社のアジア主義は自由民権運動の延長線上にあった(p108)。欧米諸国に蹂躙され搾取されるアジアの民を救いたいという興亜思想から始まっている(p109)
そんな玄洋社の活動の支援先は、アジアどころか中東、アフリカにまで及んでおり(p109)、経済面で彼らを支えたのが筑豊の石炭(p111)であったとのこと。例えば↓
玄洋社社員で炭鉱経営者である安川敬一郎は広田弘毅、中野正剛、緒方竹虎ら後輩たちへ直接支援を行った。革命に奔走する孫文にも惜しみなくつぎこまれた(p114)
とありました。
1944年10月、静養先の御殿場で頭山満は亡くなることに。玄洋社三傑のうち、箱田六輔は1888年に自決。平岡浩太郎は1906年に病没(p153)
1945年に終戦を迎えると1946年に玄洋社は解散。そして東京裁判での広田弘毅への判決へと続くわけです。
さて読み通した感想としては、玄洋社が持つ誤ったイメージを払拭させるべく歴史の中での立ち位置と役割を見つめ直した、そんな一冊かと思います。
巻末には玄洋社にまつわる書籍と人物の紹介が記されていました。こちらを参考に今後も引き続き学んでみたいと思います。完。





