御家人はやること多くて大変【元寇防塁02(西新地区)】
前回の続きです。↓
前回、福岡市早良区の住宅街を歩いていたら、偶然【元寇防塁の跡】に出くわしたんです。
さらにその近くにも別の【元寇防塁の跡】があって↓
さっそく史跡そばに設置してあった説明書きを読んでみると
なんと、この通りの先にある西南学院大学にもまた【元寇防塁の跡】があるらしい。↓
是非訪ねてみたい!勇気を出して、大学構内へお邪魔してみたい。今回はそのお話である。こんにちは。
さて『元寇防塁跡(百道地区)』を出発して、通りに沿って東へ進みます。
すると左手にまたまた広場があって
ここにも【元寇防塁跡】。でも、あらためて考えれば、そりゃあ当然その通りなんです。
ここは800年ほど昔には海岸沿いで、そこにだだだだだっと防塁の石塁が並んでいたわけで
だからこっちにもあっちにも石塁の跡があるんだよって話です。
そばに説明書きがありましたので↓
読んでみると↓
モンゴル帝国五代皇帝フビライは国名を元にあらため、日本に使者を送るも鎌倉幕府は応じず。1274年博多湾に攻め込み、その西部に上陸し、九州の御家人とはげしい戦いを繰り広げました。(文永の役)
続きます。↓
幕府は元の再来に備え、九州の御家人に命じて、1276年から半年間で、西は今津から東は香椎まで博多湾の海岸沿い20キロにわたる石築地(元寇防塁)を築かせ、その場所を警備させました
また↓
防塁は各国の分担地区によってその構造が違う。防塁の高さは2.5から3メートル。西新地区(当時の百道原)の分担国は分かっていません。石材の節約をはかった独特の工法です
それからのち↓
1281年、元は再び日本を攻めましたが、博多の地に上陸できず(弘安の役)。元寇防塁は1931年に国の史跡に指定されました
とのこと。
元寇防塁の位置図。↓
『蒙古襲来絵詞』生の松原地区の元寇防塁。↓
広場のお隣には神社が鎮座。
その名も『元寇神社』!!ずばりそのまま!こちらは元寇の戦没者を祀る神社とのこと。
境内の雰囲気。↓
ではさらに東へ進みます。↓
ここは西新4丁目で↓
頭上には元寇防塁を示す看板。↓
通りを渡ると、もう左手が西南学院大学の入り口。↓
入り口すぐには、たしかに【元寇防塁】の案内碑が出ています。↓
見学したいけど、果たして足を踏み入れていいものか。↓
そしてこちらの看板にはこんな恐ろしい注意書きが。↓
部外者の構内立ち入りを禁じます…。
もうだめだ!だがしかし!?↓
続きは次回に。よろしくどうぞ。
【元寇防塁(西新地区)】
福岡市早良区西新7丁目4-3
【西南学院大学】
福岡市早良区西新6丁目2-92