舞鶴の小路にて【玄洋社跡】【黒田家濱町別邸跡】

ちょっと前のことになりますが。

福岡市中央区の親不孝通りをブラブラ散策していたら

通りから外れた路地の片隅に

『西郷南洲翁隠家之跡』を見つけたのであった。もとい、見つけたというか

実は思いがけずの再訪問だったんです。というのも、ずいぶん以前に訪れていたんですが、すっかり忘却の彼方。この石碑を見て少しずつ記憶が甦ってきたのだった。

そんな失態に対して、しっかりして自分!と激しく叱咤したものです。

(※その時のお話がこちら!↓)

そしてそれから時は過ぎ、しばらく経った先日のこと。天神へ行く機会がありましたので、またまたその通りを訪ねてみたんです。再々訪問。

その際、親不孝通りそばの『西郷隆盛碑』がある通りからスタートし、そこから小路をしばらく散策してみましたので

今回はそのお話をしたいと思います。では出発。路地を西へ西へと歩いていきます。

いきなり良い雰囲気のラーメン屋さんがあって、心揺さぶられる午後。↓

通りの角には鳥居があって。↓

扁額には『延寿稲荷大明神』と記してありました。↓

そのまま歩いていくと↓

今度はお寺があって

こちらは『大長寺』。

以前訪ねたことがあります。↓

説明書きがありましたので↓

復習も兼ねて読んでみると↓

黒田官兵衛の弟利則公は、父職隆公の菩薩を弔うため、那珂郡市ノ瀬村(現那珂川町市ノ瀬)に心光山正岸寺を建立し、位牌や肖像画を安置。利則公が亡くなった後は大長寺に移されました。現在、官兵衛の父母祖父母4基の位牌が安置されています

では通りへ戻って。

さらに進んだところには

ドコモのビルが建っており↓

その前に立つ石碑が『玄洋社跡』の碑。↓

以前に訪ねたときの写真も添えてみます。どうでしょう!?↓

碑の裏へと廻って

刻まれた文を読んでみると↓

明治、大正、昭和と激動する世界の中にあって、日本の独立を守り、アジアの開放を目指して活躍した玄洋社は、自由民権運動の中、明治12年に誕生。以来昭和21年の解散まで67年にわたり、この地を本拠地として活動を続けました

ところで『玄洋社』とはいったい!?

wikipedia「玄洋社」の項目を参照しますと↓

頭山満率いるアジア主義を掲げた右寄りの政治結社。夢野久作の父杉山茂丸も参加

『玄洋社』の詳細については、またあらためて学んでみたいと思います。今回はとりあえず各自で!頼む!

(※夢野久作のお話はこちらの記事に!↓)

(※また、頭山満が入門した興志塾の「高場乱」についてはこちらで!↓)

さて。通りは少し先のところで大正通りに分断されるんです。このまま真っ直ぐ横断できない。

そこでいったん迂回して、再度通りを進み続けると

ちょっと先に消防署(福岡市消防本部)があって

その脇のところに石碑を発見。こちらは『黒田家濱町別邸跡』の碑とのこと。

読んでみます。↓

黒田奨学会は黒田家の援助により創立。同家寄贈の福岡市濱町所在旧別邸跡の土地を資産とし財団法人の認可を受け今日に至る

つまり名前から察するに、黒田藩であった黒田家の別邸がここにありました、ということだと思います!?

 

こちらも以前に撮った写真を添えてみたい。ちっとも変わってませんね。↓

通りはいよいよ「平和台通り」に突き当たり、ついに途切れてしまうことに。

舞鶴の小路散策もここでいったんおしまいです。お疲れ様でした。


【玄洋社跡】

福岡市中央区舞鶴2丁目3-8-12

【黒田家濱町別邸跡】

福岡市中央区舞鶴3-9