舞鶴の小路にて【玄洋社跡】【黒田家濱町別邸跡】
数か月前のことですが、
福岡市中央区の親不孝通りをブラブラ散策していたことがあって、
通りから外れた路地の片隅に、
ふと『西郷南洲翁隠家之跡』の碑を見つけたのでした。もとい、見つけたというか、
大昔(10年以上前)に訪れたことがあったんだけど(西郷碑1度目の訪問)、すっかり忘れてて。この石碑をたまたま見かけて、かつて訪ねた記憶を取り戻したのであった。
(※その記憶を取り戻したお話がこちら!↓)
それが数か月前の出来事です。(西郷碑2度目の訪問)
そしてつい先日のこと。天神へ行く機会がありましたので、またまた親不孝通りの路地を訪ねてみたんです。3度目の訪問となる今回は、
『西郷南洲翁隠家之跡』の碑をスタート地点に、そこから小路をしばらく散策してみようと思い立ちましたので、↓
そのお話をしていきたいと思います。ではさっそく出発。路地を西へ西へと歩いていきますよ。
いきなり雰囲気の良いラーメン屋さんがあって、心揺さぶられる午後。↓
通りの角には鳥居があって、↓
扁額には『延寿稲荷大明神』と記してあります。↓
そのまま歩いていくと↓
今度はお寺が。
こちらは『大長寺』といって、
ずいぶん前のことですが、訪ねたお話をしたことがあります。↓
入り口そばに説明書き。↓
復習も兼ねて読んでみることにしますね。↓
黒田官兵衛の弟利則公は、父職隆公の菩薩を弔うため、那珂郡市ノ瀬村(現那珂川町市ノ瀬)に心光山正岸寺を建立し、位牌や肖像画を安置。利則公が亡くなった後は大長寺に移されました。現在、官兵衛の父母祖父母4基の位牌が安置されています
とのこと。それでは小路へ戻ります。
さらに進んだところには
ドコモのビルが建っており↓
その前に立つ石碑 is 『玄洋社跡』の碑。↓
こちらも以前に訪ねたことがあって、そのときに撮った写真がこちら。↓
碑の裏へ廻って
そこに刻まれた文を読んでみると↓
明治、大正、昭和と激動する世界の中にあって、日本の独立を守り、アジアの開放を目指して活躍した玄洋社は、自由民権運動の中、明治12年に誕生。以来昭和21年の解散まで67年にわたり、この地を本拠地として活動を続けました
ところで『玄洋社』ってなに!?
wikipedia「玄洋社」の項目を参照しますと↓
頭山満率いるアジア主義を掲げた右寄りの政治結社。夢野久作の父杉山茂丸も参加
とありました。『玄洋社』の詳細については、またあらためて学んでみたいと思います。今回はとりあえず各自で学んでみて!頼む!
(※夢野久作のお話はこちらの記事に!↓)
(※また、頭山満が入門した興志塾の「高場乱」についてはこちらで!↓)
さて。通りは少し先のところで大正通りに分断されることになります。だから、このまま真っ直ぐ横断できない。
そこでいったん迂回して、再度通りを進み続けると、
ちょっと先に消防署(福岡市消防本部)があって
その脇のところにも石碑を発見。こちらは『黒田家濱町別邸跡』の碑とのことで
読んでみるとこうありました。↓
黒田奨学会は黒田家の援助により創立。同家寄贈の福岡市濱町所在旧別邸跡の土地を資産とし財団法人の認可を受け今日に至る
つまり名前から察するに、黒田藩であった黒田家の別邸がここにありました、ということのようっぽい。
ちなみにこちらも大昔に通りかかったことがありますので、当時撮った写真を添えてみたい。ちっとも変わってませんね。↓
通りはいよいよ「平和台通り」に突き当たり、ついに小路は途切れてしまうことになりました。
だから舞鶴散策もここでいったんおしまい。お疲れ様でした。
【玄洋社跡】
福岡市中央区舞鶴2丁目3-8-12
【黒田家濱町別邸跡】
福岡市中央区舞鶴3-9