五芒星は魔除けの呪符だ【みあけ史跡公園02】
前回の続きです。↓
前回、福岡県古賀市の美明地区を徘徊し↓
ぼんやり工事中の道路の脇を通っていたら↓
いつの間にか史跡公園に辿り着いたのでした。こんにちは。↓
引き続き史跡公園を散策していきます。
では前回訪ねた『みあけ史跡公園』から↓
通りを跨いだ先の、もう一方の【みあけ史跡公園】へ向かいます。
通りの先には踏切が見えて↓
その踏切から線路を辿っていくと「JRししぶ駅」があり、反対側へ進めば「JR古賀駅」がある。そんな場所。↓
通りを渡り終えると、広場があって
広場隣りに位置するのが、もう一方の【みあけ史跡公園】。
これら道路に跨る二つの【みあけ史跡公園】というのは、つまり、この道路で分断された『鹿部田淵遺跡』を保存するための公園ということ!?はて。
良く分からないまま進んでいくと、すぐそばに【みあけ史跡公園 鹿部田淵遺跡】と刻まれた碑が立っており↓
足元に説明書き。↓
さっそく読んでみるとこんな具合。↓
鹿部田淵遺跡。ここでは1450年前の古墳時代の建物4棟と溝などが見つかりました。建物は倉庫と作業や事務に使われた大きな建物で、『日本書紀』に書かれている「糟屋屯倉」かと考えられています
こちらの公園にはとにかく柱が立ちまくっており↓
ちなみに通りの向かいには、前回訪ねたもう片方の『みあけ史跡公園』が見えています。↓
そして柱のそばにおしゃれなパネルがあって↓
これは、当時の様子を再現出来るようになっているみたい。↓
また、いくつか説明書きもありましたので、それぞれ順に見ていきたいと思います。↓
まずは【鹿部田淵遺跡】について。↓
遺跡から6世紀中頃から7世紀初めころまで使われた大型の建物群が見つかりました。東西を溝で区画した空間の内部に、大型の建物をL字状に配置しています
それは↓
奈良時代の地方官衙(役所)と似た特徴から公的な施設と推定され、大和朝廷の直轄地を管理する「ミヤケ」の可能性があります
というのも↓
『日本書紀』の「磐井の乱」の記述には、北部九州の有力者であった筑紫君磐井が大和朝廷に敗れ、磐井の子の葛子が「糟屋屯倉」を献上したとあります
その葛子は↓
筑紫君の本拠地である八女地方ではなく、玄界灘に面した糟屋をミヤケとして献上しています
そして↓
鹿部田淵遺跡の大賀型建物群は、玄界灘沿岸の糟屋地域に存在した「糟屋屯倉」と同時期の遺跡であることから、その候補地に挙げられています。
とのこと。つまり、ここが「糟屋屯倉」の候補地であると。
(※『屯倉』のお話はこちらの記事もどうぞ!↓)
こちらの説明書きには、『鹿部田淵遺跡』の立地に関する記述があって↓
読んでみると↓
『鹿部田淵遺跡』は鹿部山から花鶴川にのびる丘陵の南側斜面に位置。遺跡の南には昔、「鹿部大池」がありました。江戸時代に朝鮮通信使が相島に宿泊する際、この池の鯉が料理に出されました
また↓
花鶴川の河口には「花津留浦」という港がかつてありました。宗像から松浦半島に至る玄界灘沿岸部は海上交通の要所でありました。古代には宗像族や安曇族といった航海技術を持った海人族が知られています
地図で確認してみると、一層深みが増し増し。↓
出土物に関する説明書き。↓
五芒星の描かれた白磁の皿!!これぞロマン!!↓
白磁や青磁は日宋貿易によって輸入されたもの。浅く掘られた穴の中に伏せておかれた白磁の皿が見つかりました。皿の内側には中央に五芒星そしてその周りに文字が墨で書かれていました
(※五芒星というのは正五角形の対角線で作られる星形のこと)。そして↓
五芒星は別名セーマンや清明桔梗紋と呼ばれ、陰陽道系の魔除けの呪符として用いられました。この白磁の皿も祀りで使われたと考えられます
最後に公園案内図を見て思いを馳せていると↓
地図内の堀立柱が気になったので、しばらく探してみたんだけど↓
見つかりませんでした!!結局どこ!?ギブギブ。と言う感じで、そろそろ撤収です。↓
またいつの日か古賀散策でお会いしましょう。完。
【みあけ史跡公園】
福岡県古賀市美明1丁目4