月形洗蔵は今日も古賀村で【月形洗蔵幽閉の地】
先日、福岡の歴史に関する本をパラパラとめくっていたら、ふと立派な石碑の写真が目に飛び込んできたのでした。こんにちは。
添えられた説明によると、それは【月形洗蔵幽閉の地】を記す石碑。場所は福岡県筑紫野市古賀。
行きたい行きたくない行きたい行きたい。行くことに決定です!!
ちなみにですが、このかっこいい名前の持ち主【月形洗蔵】氏については、幕末の勤王志士だったということしか分かりません。
!?いやいや、ちょとまてくたさい。そういえば、福岡市中央区唐人町にある『枡木屋跡』(↓)を訪ねた記事の中で、
彼と深い関連のある『乙丑(いっちゅう)の獄』についてお話をしたことがありました。(※乙丑の獄についてはこちらの記事も!↓)
また、中央区赤坂地区にある『野村望東尼生誕の地』のそばには【月形洗蔵住居跡地】があることも、
以前すでにご紹介していたのであった。まあ、それはさておきまして、↓
まずは基本的な情報をwikipedia「月形洗蔵」の項からチェックしてみたいと思います。↓
1828年生まれ。幕末の福岡藩士。尊王攘夷運動に身を投じる。黒田長溥の参勤交代に意見をし建白書を提出。さらに藩の汚職を批判。それにより捕縛。家禄没収の上、御笠郡古賀村(今の筑紫野市古賀)に幽閉される。これが辛酉の獄
続きます。↓
のち、福岡藩の加藤司書の進言によって帰宅するも蟄居(自宅謹慎)。また脱藩志士の平野国臣に決起を持ち掛けられたが拒否。永訣状を送り付けられた
もう少し続きます。↓
復職後、薩長の融和に勤めた。第一次長州征討で福岡藩は征討中止を目指し、月形は五卿を説得して長州藩外への移転を実現。征討中止に貢献。しかし幕府が再度の長州征討を決定すると藩論が一変。五卿転座での公金横領の罪を問われ、桝木屋にて斬首(乙丑の獄)。墓所は少林寺(福岡市中央区天神)
(※加藤司書のお話はこちらでも!↓)
(※平野國臣のお話はこちらでも!↓)
(※少林寺のお話はこちらでも!↓)
藩士の【月形洗蔵】は斬首、家老であった加藤司書は自刃、平野國臣は投獄されたけれど出獄、最期は京都で投獄され処刑。といったところで
いざ、【月形洗蔵幽閉の地】へ向かいたいと思います。まずは趣きのある「JR天拝山駅」からスタート。↓
そこから福岡筑紫野線を西へ向かってしばらく進みます。↓
巨大ショッピングモール「イオンモール筑紫野」を通り過ぎたら↓
上古賀の交差点があって
ここを左へ入ったところには
以前訪ねた『上古賀若八幡宮』(↑)が鎮座。ああ懐かしい。↓
今回は引き続き先へ進みます。すると通りは31号線とクロスし、↓
その角のところには「ようこそ筑紫野市へ」という歓迎のメッセージ。はいどうもどうも。↓
すかさず通りを渡って、↓
すぐのところで左へ入っていきます。↓
そして真っ直ぐ進んでいくと、↓
あったああ。↓
実物はさすがの存在感、大きくて立派です。↓
後ろに見えるのは高速道路。↓
碑のお腹のところに説明書きが貼り付けてありましたので↓
頑張ってなんとか読んでみますね。
月形洗蔵は福岡藩士。平野國臣らとともに明治維新の勤王の士。兵学者になったが、藩主黒田長溥の参勤交代に際し、藩政の改革が急務で参勤交代はそうじゃない、とした建白書を提出
そして↓
そのことにより捕えられ、御笠郡古賀村にて牢居の身に。さらにのち藩内佐幕派の台頭により枡木屋の獄へ。斬首
今のこの景色も、幽閉当時の面影を残していたり!?いなかったり!?
ちなみに作家葉室麟氏の小説『月神』では、第一部の主人公として月形洗蔵が登場。
読んでみると、当時の雰囲気が身近に感じられました。
良かったら是非。
【月形洗蔵幽閉の地】
福岡県筑紫野市古賀