雄藩が力を合わせれば幕府を倒せる【西公園/平野國臣像】
前回、福岡市中央区の今川地区に【平野神社】を訪ねたお話をしました。
【平野神社】は幕末の志士「平野國臣」を祀っている神社であり、明治通り沿いに鎮座しています。↓
こちらは彼の生誕の地でもあるとのこと。
で、訪ねた際にふと頭によぎったことがあるんです。そういえば【西公園】に「平野國臣像」があったような!?なかったような!?そんな曖昧な記憶が甦りました。
え!?どっち!?気になって仕方がありませんので、さっそく【西公園】を訪ねてみることにしました。今回はそのお話です。こんにちは。↓
明治通りから北へまっすぐ進んで、
このおなじみの坂道を上ります。
左手にほら!
ん?へえ二郎なんだ。
からの、ほら!
説明書きにはこういった記述がありました。↓
平野國臣は26歳のとき黒船8隻を目の当たりにし、長崎(のちの海軍伝習所)で世界情勢を学びました。以来、国家統一を訴え「雄藩が揃って力を合わせれば幕府を倒せる」と倒幕を目指したけれど、禁門の変にによってその夢は断たれたのでした。享年37
銅像はこの先。↓
ゆったり落ち着いた雰囲気の広場です。二郎っていうのは、ニ男だから。なるほど!!たしかに!!
像に近づいてみると、詳細な説明書きがあって、↓
像の裏側にも平野國臣に関する記述がありましたので↓
ざっくりまとめて、wikipediaの平野國臣の項と一緒に、参照してみたいと思います。↓
平野國臣は地行下町で生まれ、のちに尚古主義(日本本来の古制を尊ぶ思想)に傾倒するようになります。結婚し一男をもうけるも、一切の束縛を断ち切るとか言います
そして安政5年(1858)のこと。
國臣は、幕府から逮捕命令が出ていた勤王の僧「月照」を薩摩へ送り届けることに。月照は西郷隆盛と入水自殺を図るも、國臣は西郷隆盛を救助したのでした
(※西郷隆盛と月照のお話はこちらでも!↓)
そんな中、薩摩藩による倒幕決起を願って詠った有名な歌がこちら。↓
我胸の燃ゆる思いにくらぶれば烟はうすし桜島山
それから後、國臣は藩主の上洛を阻止した罪で、
「枡木屋の牢」(↑)に投獄されます。
その際「こより」を使って8000字を越える論説・書簡を記したといわれていて↓
のちに「枡木屋の牢」から釈放された國臣は、↓
「月形洗蔵」と共闘しようとするも決裂。生野で兵を挙げるも捕えられてしまいます。『禁門の変』の火災をきっかけに、他の囚人とともに斬首されたのでした
といった具合に、悲しい結末を急ぎ、時代を駆け抜けたのでした。(※月形洗蔵についてはこちらの記事も!↓)
ちなみに國臣のお墓は京都市上京区の竹林寺にあって、國臣の像はここ西公園にあるんだけど、↓
じゃあどうしてここに像があるのかっていうと
残念ながら私は知らないのであった。完。
【西公園/平野國臣の像】
福岡市中央区西公園13