私の燃える想いに比べない【枡木屋跡】

福岡市中央区唐人町地区の「よかトピア通り」から、路地に入って通り抜けようとしていたところ↓

通り沿いに小さな公園(唐人町北公園)があって、その園内に案内板を見つけたのであった。こんにちは。↓

ということで、さっそく案内板を読んでみたいと思います。

慶長12(1607)年、福岡藩はこの付近に、藩内の穀物を量る枡の製造・検査を行う「枡木屋(ますごや)」を設置しました

位置で言えば、この公園は、かつて存在した福岡城の西の出入り口『黒門』の近く。

(※黒門のお話はこちらでも!↓)

そんな場所に「枡木屋」があったというお話です。↓

はじめ福岡藩では、年貢米を「納め枡」、家臣の俸禄給を「御国町枡」と呼び、領内に2種類の枡を定めていました

それからのち↓

寛文9(1691)年、江戸幕府が枡の大きさを統一したことに福岡藩も従い、「京枡」の仕様を領民に命じたのでした

とのこと。そんな歴史の流れとはまた別に、ここ【枡子屋跡】にはもう一つ別の姿があるっぽいんです。↓

調べてみるとこんなお話。↓

『唐人町北公園』がある近辺は『枡木屋』があったことから「枡木屋町」と呼ばれていました。そしてその「枡木屋町」には、かつて囚人の獄舎があったといます。

安政6(1861)年に、那珂川の河口にあった獄舎が、『旧枡木屋町』に移転したのです。

慶應8(1865)年には、幕末の福岡で起こった勤王派の大粛清『乙丑(いっちゅう)の獄』にて逮捕されたうち14名が、枡木屋(のそばの海)で処刑されました

ちなみに『乙丑の獄』とはなにか調べてみますと↓

幕府側と反幕府側で揺れる幕末の世情において、福岡藩主黒田長溥は佐幕の立場をとり、藩内の尊攘派勤王派を弾圧しました。

藩士の月形洗蔵らは斬首、家老であった加藤司書らは自刃、また野村望東尼らは流罪となりました

また、wikipediaの『乙丑の獄』の項には

1865年、藩士ならびに関係者140名以上が逮捕され、加藤・建部以下7名が切腹、月形・海津以下14名が桝木屋(福岡市中央区唐人町)で斬首(うち1名は脱獄するものの力尽き、那珂川から箱崎松原(同市東区箱崎松原)に漂着した遺体を斬られた)、野村望東尼以下15名が流罪という大弾圧が繰り広げられました

福岡の勤王志士で知られる平野國臣もまた、枡木屋の獄に投獄されたけれど、のちに出獄。

 

最期は京都で投獄され処刑。

その平野國臣を祀る神社が『平野神社』で↓

中央区今川地区の明治通り沿いに鎮座しています。↓

「平野國臣生誕之地」碑。↓

「平野國臣君追悼碑」。↓

また「月形洗蔵」の住居跡は↓

福岡市中央区赤坂の坂を上って

『野村望東尼』(↑)の生誕跡地碑が立つ場所の↓

ほんのすぐそばに見つけることができます。↓


【PR】攘夷の幕末史

【桝木屋跡】(唐人町北公園)

福岡市中央区唐人町3丁目3