勝敗がないと割と平和だろう【山田宝満宮】

わりと前のことなんですけど

大野城市の「中」地区に鎮座する『御陵宝満神社』(↑)を訪ねたことがあって↓

その『御陵宝満神社』というのは「景行天皇」や「神功皇后」もお祈りにやってきたといわれている由緒ある神社で、ご祭神は「玉依姫命」。それはつまり水分けの神であり農耕の神。↓

『御陵宝満神社』は、のち1592年から1681年の頃に五社(中・乙金・山田・筒井・井相田村)に分社されました(分霊勧請)。その背景には、近くを流れる御笠川がたびたび氾濫することへの対策があったみたい。↓

その分社されたという五社。全コンプリートしたい!!頼む!!

そんな謎の衝動に突き動かされた結果、これまでに、前出の『御陵宝満神社』はもちろんのこと↓

『乙金宝満神社』↓

そして

『筒井宝満神社』

さらに

『井相田宝満宮』

の3社(+1)を訪ねてきました。

そして今回で4社目。そう、大野城市山田地区に鎮座する【山田宝満宮】にお邪魔しましたよというお話です。こんにちは。

 

さて福岡方面から春日方面へ福岡日田線を進み↓

山田4丁目の交差点を左折します。

このまま直進すると御笠川だけど↓

その手前で右へ入る。↓

そこから細い路地を少し進んだところに、神社が鎮座するのが見えます。【山田宝満宮】です。↓

どうやらこちらは神社の裏手のようだけど、とりあえずそのまま境内へ失礼します。↓

ウェルカムドリンク的な!?ウェルカム遊具的な!?↓

おや、狛犬。↓

そして社殿。↓

拝殿内もちらっと。↓

本殿。↓

境内社。↓

「地禄天神社」。道真公でしょうか。↓

そばには小さな祠も。↓

ご神木と、なにかしらの石碑。↓

そして遥拝石。↓

社殿そばには由緒書きがありましたので↓

読んでみるとこんな具合。↓

ご祭神は「玉依姫命」。1673~1680年の頃、旧中村御陵の宝満宮から分霊勧請されました。旧山田村の本村は、御笠の森の周辺にあったけど現在の高地に移されました。御笠川の氾濫に悩まされたからである。ご神像一体。天神像なるべし

とのこと。

ここは『御笠の森』(↑)から徒歩10分ほどの立地。

社殿の右手には鳥居。こちらが神社入り口っぽいです。↓

鳥居のそばには猿田彦があって↓

境界は隣のお寺の門。↓

また、ネット検索であれこれ調べてみましたら、【山田宝満宮】に関するこんな面白い記載がこちらのサイト【紀行道中写真館】にありましたので、参照させていただきます。ありがとうございます。↓ 

この宮にはかつて『盆綱引き』という盆の行事があって、8月15日に神社の鳥居正面の道路で盆綱引きを行っていた。

7月から8月の初めにかけてお年寄りや青年が山にカズラやカヤを刈って来て、境内の最も大きな楠の木の枝に引っかけ藁と一緒に捻って網を作った。その楠の木は枯れてしまって無くなっている。

網の中央部は直径30cm位であとは細くなり、長さ30m程の網に細い枝縄がつけられ村人達はこの枝縄を引張った。お盆の15日には鳥居正面の直線道路にこの網を伸ばして、村中のお年寄りも子供も総出で上組と下組とに分れて綱引きを行ったのである

そして↓

ある程度の時間を引きあった後中央部の太い網の上に庄屋さん(区長)が上がり、「祝い目出度」を合唱し、最後は網の中央をナタで断ち切って引き分けにした。それは喧嘩などせず助けあって暮らすようにという願を込めたもの。断ち切った網を宝満神社の境内に運びその網で土俵を作って、子供達の相撲大会を行い子供の成長と豊饒(ほうじょう)を祈った。

大野城市内では牛頸、瓦田、筒井、仲島、中、乙金、釜蓋でも昭和の初め頃まで行なわれていたという。山麓の村落では山方と里方に分かれて綱を引きあい、山方が勝てば山に植林した木がすくすくと成長し、里方が勝てば稲の豊作が約束されるといわれていた所もあった

(引用させていただきました。ありがとうございます)

といったところで、分社された五社を巡る大冒険も↓

あとは『中宝満宮』の一社を残すばかりとなりました。

ちなみに『中宝満宮』は、多分だけど御笠川の向こう側の多分あっちらへんの気がする、そんな気がします。↓

それではごきげんよう。↓


【山田宝満宮】

福岡県大野城市山田4丁目7