昔あって今なくて昔なくて今ある【乙金宝満神社】

前々回は【王城山4号墳】

そして前回は【善一田古墳】へ、といった具合に

これまで乙金地区の愉快なスポットを訪ね歩いてきました。そして今回は【乙金宝満神社】へ向かいたいと思います。↓

「現人橋乙金線」の通り沿いから少し住宅地へ入ります。

 

敷地をぐるっと廻って↓

こちらの鳥居があるほうが神社入り口。↓

鳥居をくぐると↓

広場になっていて

そばに由緒書きがありましたので、さっそく読んでみたいと思います。↓

ご祭神は「玉依姫命」「神功皇后」「応神天皇(八幡神)」。文禄4年(1597)中村御陵の宝満宮から、当村御手洗の古宮の地に勧請し,元禄年間(1688-1704)に現在地に遷宮されたと伝える

そして

ご祭神の「玉依昆売命」は「神倭伊波礼昆古命(神武天皇)」をお産みになり、また水分の神として竈門山(宝満山)の頂きに鎮座されました。この地方一帯の水を支配し、水田耕作農民に密接に結びつく守り神として尊崇されました

つまり【乙金宝満神社】には農業の守り神が祀られていて

後に神功皇后と応神天皇を相殿に祀るが、その理由は、粕屋郡宇美において神功皇后が応神天皇をお産みになるとき、宝満山の益影の水を産湯とされたためであるという

この【宝満】というのは、宝満山(竈戸山)から来ているということ!?

左が『大行事』で右が『疫神』。

『観音堂』で↓

中に観音様。↓

さらに参道を進むと↓

拝殿。↓

こちらの案内板には↓

村田東圃による「夏越し祓い祇園踊りの絵馬」という大絵馬がこちらの神社に奉納されました。大野城市内では一番古い絵馬だといわれています

とあって

社殿の中はこんな具合。↓

さて、さきほどの『疫神』ですが、こんな言い伝えがあるそうなんです。↓

大野城市のHP内にある『天神の森(乙金)』より参照します。↓

九州へ左遷された道真公が、その道中で乙金まで来たときにお供が病気になり死んでしまいました。

悲しんだ道真公は、村はずれの森の一隅に埋めて手厚く葬ったといいます。それからこの森を『天神森』とよびようになりました。

森の中にはいつ頃建てられたのかわからない自然石の石塔があり「疫神(えきじん)」と刻まれていて、村人たちは病魔から守っていただくようお祈りしています

昔は病気がはやるのは、そういった霊がよそからやってくるものと考えられていて、その対策のために↓

村境に注連縄を張ったり疫病の源を藁人形に封じ込めて村から送り出したり疾病神をなだめるためのお祭をするなどして病気の予防をしていました。

『天神の森』の疫神も、病魔の侵入を防ぎ再び戻ってこないようにと村境に立てられたものと思われます。この疫神の碑は道路の拡幅舗装のため現在は乙金宝満神社境内に移設されています

そんなお話。

この乙金地区一帯では大規模な宅地開発が進み

この周辺の風景はまるで変わったといいます。

『天神の森』だってとっくにないわけですし。


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【乙金宝満神社】

福岡県大野城市乙金2丁目17