息の浜と博多浜と袖の湊と私【袖の湊】

今回も前回に引き続き、「日田街道」を辿っていた時の話しをしたいと思います。こんにちは!(→解けたと思った答えが問題だった【井尻地禄神社】)↓

日田街道を辿って、福岡市中央区の「福岡城」から↓

福岡市博多区の「博多千年門」へと向かっていた道すがら(→スタート地点にさえ立ってないけど【日田街道03】)↓

「大博通り」の交差点角に↓

こんな案内板を見つけたのであった。↓

案内板を読んでみるとこんな具合。↓

中世時代、現在地の東側は入り海で、これを挟んだ北側の一帯は沖浜(息浜)と呼ばれました。鎌倉時代の「蒙古襲来絵詞」にも見える地名です。

そして↓

承天寺や聖福寺も関わった元や明との貿易船が出入りした港で、当時日本の交易や外交の要地でした。「袖の湊」はもともと和歌の一般的な用語でしたが、江戸時代初めには中世博多の貿易港としてイメージされるようになりました。

現在地の東の北の一帯が沖浜(息浜)と呼ばれていて、そこが「袖の湊」だということ!?はて!?

なにがなんだか良く分からないまま、続けて「大博通り」を歩いていると↓

今度は通り沿いにジャンボな博多の古地図があったので↓

確認がてらチェックしてみることにしました。↓

さあ「袖の湊」はどこにあるのかい。あら、あるよあるある。↓

ちなみに地図の上方に見える「菊地大友古戦場」が、なんだかとても気になるけれども!!

それはさておき、オブジェ下方には、こちらの絵図についての説明がありました。読みますね。↓

江戸時代に「住吉神社」に奉納された絵図。「住吉神社」は航海安全を祈る神。全国の住吉社の始原ともされています。古絵図の景観は、天神周辺の「冷泉津」と大濠以南の「草香江」が大きく湾入しているのが特徴。古絵図にある比恵川は、現在の石堂川(御笠川)とは異なり、「冷泉津」の方に流れ込んでいます。

そして↓

袖の湊は、和歌の題材として良く取り上げられ、平清盛が開いたともいわれています。しかし袖の湊とされていた呉服町付近は、12世紀初めには陸地になっていたことが確認されました。これは平清盛が袖の湊を開く以前の年代にあたります。

また↓

古絵図には袖の湊の位置を呉服町付近の東と西にしているものがあります。

とのこと。つまり、かつて平清盛は「袖の湊」を開いたんだけど、開いた場所はとっくの昔に陸地だった。つまり?開いていない?ん!?



ちなみにこちらが「草香江」で↓

そして「冷泉津」があって↓

左には「箱崎八幡宮」も見えます。↓

これを現在の地図に照らし合わせてみると↓

私の頭の中ではこうなっている。でも正解を私は知らないんです。ごめんね。

さて場所は変わって。ちょっと前に、福岡市博多区井相田にある【福岡市埋蔵文化財センター】を訪ねたときのこと。(→出会いは忘れたころに【福岡市埋蔵文化財センター】)↓

センター内を見学中に、とある説明書きを見つけたのであった。↓

読んでみるとこんな具合。↓

国道202号線をはさんで北は「息の浜」、南は「博多浜」と呼ばれていました。博多の地に整備された街が出現するのは8世紀以降で、南北方向の溝に囲まれた役所的な施設が考えられます。

そして↓

12世紀には砂丘は陸続きとなり、博多浜を貫く北西から南東方向の街割の基本線となる溝が設けられました。

また↓

13世紀末から14世紀初めにかけて、この溝に重ねて幹線道路や支線道路が整備されました。しかし16世紀の戦乱で荒廃。豊臣秀吉の街割で再興。現在へ。

とのこと。こちらが「中世の様子」とのこと。↓

そしてここからが重要なんです。そう、次にお見せする絵図に、ずばり数々の疑問の答えがあるんです。正解はこちら!!↓

ということは、つまりこう↓

結局「袖の湊」に関しては良く分からないままなんですけど、「息の浜」そして「博多浜」は、はっきりと答えが出たのであった。分かって良かったです。

仮にもしも分からなかった場合→

博多浜が分からない→悲しみが爆発する→自暴自棄になる→やけ食いする→悲しみが爆発する。

つまり、こういった負の連鎖から逃れることが出来ました、というお話でした。ありがとう。


【呉服町駅】

福岡市博多区上呉服町10