息浜と博多浜と袖の湊と私【袖の湊】

前回に引き続き↓

今回も、「日田街道」を辿っていた時のお話をしてみたいと思います。↓

スタート地点である福岡市中央区の「福岡城」から↓

福岡市博多区の↓

「博多千年門」へと向かっていた道すがら、↓

「大博通り」の交差点角に↓

こんな案内板を見つけたんです。こんにちは。↓

案内板を読んでみるとこんな具合。↓

中世時代、現在地の東側は入り海で、これを挟んだ北側の一帯は沖浜(息浜)と呼ばれました。鎌倉時代の「蒙古襲来絵詞」にも見える地名です

「入り海」とは海が陸地に入り込んだ所、の意。そして↓

承天寺や聖福寺も関わった元や明との貿易船が出入りした港で、当時日本の交易や外交の要地でした。「袖の湊」はもともと和歌の一般的な用語でしたが、江戸時代初めには中世博多の貿易港としてイメージされるようになりました

現在地の東のそこから北の一帯が沖浜(息浜)と呼ばれていて、そこが「袖の湊」(貿易港)だということ!?は!?

なにがなんだか良く分からないまま、続けて「大博通り」を歩いていると↓

今度は通り沿いにジャンボな博多古地図がありましたので↓

確認がてらチェックしてみることにしました。↓

「袖の湊」は?あるよあるある。この地図は↓が北。↓

ちなみに地図の上方に見える「菊地(池?)大友古戦場」。とても気になります。それはまた別の機会に。

(※菊池武時と大友貞宗のお話はこちらで!↓)

さて、オブジェ下方には、こちらの絵図についての説明がありました。↓

江戸時代に「住吉神社」に奉納された絵図。「住吉神社」は航海安全を祈る神。全国の住吉社の始原ともされています。古絵図の景観は、天神周辺の「冷泉津」と大濠以南の「草香江」が大きく湾入しているのが特徴。古絵図にある比恵川は、現在の石堂川(御笠川)とは異なり、「冷泉津」の方に流れ込んでいます

そして↓

袖の湊は、和歌の題材として良く取り上げられ、平清盛が開いたともいわれています。しかし袖の湊とされていた呉服町付近は、12世紀初めには陸地になっていたことが確認されました。これは平清盛が袖の湊を開く以前の年代にあたります

また↓

古絵図には袖の湊の位置を呉服町付近の東と西にしているものがあります

とのこと。つまり、かつて平清盛は港「袖の湊」を開いたんだけど、そこは入り江だった場所が陸地になった場所だった!?ん!?なに!?なんの話してます!?

 

ちなみにこちらが「草香江」で↓

(※草香江についてはこちらのお話も!↓)

そして「冷泉津」があって↓

左には「箱崎八幡宮」も見えます。↓

(※箱崎八幡宮のお話はこちらでも!↓)

これを現在の地図に照らし合わせてみると↓

私の頭の中ではこうなっているんですけど、果たして正解やいかに。

 

そして時は過ぎ場所は変わって。

ちょっと前に福岡市博多区井相田にある『福岡市埋蔵文化財センター』を訪ねたときのこと。↓

センター内を見学中に、とある説明書きを見つけたんです。↓

読んでみると↓

国道202号線をはさんで北は「息の浜」、南は「博多浜」と呼ばれていました。博多の地に整備された街が出現するのは8世紀以降で、南北方向の溝に囲まれた役所的な施設が考えられます

そして↓

12世紀には砂丘は陸続きとなり、博多浜を貫く北西から南東方向の街割の基本線となる溝が設けられました

また↓

13世紀末から14世紀初めにかけて、この溝に重ねて幹線道路や支線道路が整備されました。しかし16世紀の戦乱で荒廃。豊臣秀吉の街割で再興。そして現在へ

とのこと。こちらが「中世の様子」。↓

ここからが重要なんです。そう、次にお見せする絵図に、ずばり数々の疑問の答えがあるんです。正解はこちら!!↓

ということは、つまりこう↓

結局「袖の湊」に関しては良く分からないままなんですけど。承天寺北にある入り江のこと!?え違います!?

(※袖港についてのお話はこちらにも少しあって!↓)

参照してみると、↓

博多の袖港(そでのみなと)に道真公が上陸した際、地元の漁師が道真公を出迎えた。袖港は、「博多リバレイン」がある辺りとされており、「渡唐口跡」の石碑が建っています

とのこと。それはともかく、

「息の浜」そして「博多浜」については、はっきりと答えが出ました。サンキュー、文化財センター。

一部だけど疑問が解けて良かったです。もしも分からないままだったら↓

博多浜が分からない→悲しみが爆発する→自暴自棄になる→さらに悲しみが爆発する

そんな負のスパイラルに陥るところでした。ひと安心である。完。


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【呉服町駅】

福岡市博多区上呉服町10