官衙域南正面付近に朱雀門あった【大宰府朱雀門跡】

今年ももうすぐ終わりです。恐ろしい!!

さて私の記憶が確かならば、それは夏頃の出来事。今回はその時に訪ねた【大宰府政庁跡】のお話を、今更ながらですが語っていきたいと思います。↓

どうして今かというと、訪問したことをすっかり忘れていたのだ。

 

福岡県太宰府市を走る「政庁通り」の通り沿いの↓

「大宰府政庁跡」の交差点から見て↓

通りのこちらには「太宰府政庁」の入り口があるんですけど↓

かつて遠い昔には、その入り口から南へ向かって真っ直ぐに「朱雀大路」と呼ばれる大きな道路がのびていて、↓

その「朱雀大路」はそのまま二日市駅前の『客館跡』辺りへ続いていたのだとききました。それを逆方向で考えると↓

かつて博多の港(鴻臚館)へとやってきた外国使節団は、官道を通って大宰府方面へ向かって進み、『西門』を抜けそして『客館』で身なりを整えてから↓

「朱雀大路」を大宰府政庁へ向かったのだ!で合ってます!?だいじょうぶそ!?こんにちは。↓

今回はといいますと、その「朱雀大路」に沿って進み↓

御笠川に架かっている↓

朱雀大橋のほとりにある↓

朱雀門の礎石を見てやろうと思うんです。いいともー。ちなみにこちらの大きな通りは「朱雀大通り」。「大通り」です。「大路」じゃないよ、ここ大事。↓

振り返るとこんな景色。↓

橋のすぐそばには「柿本人麻呂の歌碑」があって↓

読んでみると↓

大君の 遠の朝廷と あり通ふ 島門を見れば 神代し思ほゆ

歌の解説はこう。↓

柿本人麻呂が筑紫国へ行くときに、海路でつくった歌。九州への海路にて、明石海峡などの瀬戸内の海峡を見て、神代の昔から大宰府政庁への往来にこの海峡を通ってきたのだという感慨を歌った

とのこと。

 

御笠川の川沿いは遊歩道として整備されており、↓

その脇のところに見えるのが「朱雀門の礎石」。↓

そばに案内板がありましたので↓

読んでみます。↓

この礎石は河川改修工事の際に、朱雀大橋の真下辺りで見つかりました。発掘調査によって、奈良から平安時代にかけて大宰府政庁の前面には広場があり、その両側に役所が立ち並んでいたとわかってきました

そして↓

大宰府でも都と同じように官衙域(官庁街)の南正面であるこの付近に朱雀門があったと考えられるようになりました

こちらが周辺の航空写真。↓

また、後日訪ねた『大宰府展示館』館内の巨大ジオラモ(を撮った写真)も参照したいと思います。川に立つのが朱雀門でしょう。↓

といったところで門跡の見学はおしまい。「大宰府政庁跡」へ戻って↓

再び見学を続けますが↓

お話の続きは次回に!よろしくお願いします。↓


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【大宰府政庁跡】

福岡県太宰府市観世音寺4丁目6-1