和尚の鎮火パワーで霊験あらたか【大同庵跡・古渓水】

昭和通りを一歩入った「博多区奈良屋町」は、「旧奈良屋町」を筆頭にいくつかの町が合併してできた町とのことで、その中には【古渓町】も含まれるのだそうです。

そのかつて【古渓町】と呼ばれた場所に残る史跡『大同庵跡』を、今回訪ねてみました。こんにちは。

そもそも【大同庵】っていったいなんなのか?さっそく調べてみると、そこにはこんなお話があったんです。↓

時代は安土桃山時代。京都大徳寺の高僧であった古渓宗陳(こけいそうちん)和尚は、千利休がらみの事件で豊臣秀吉をカンカンに怒らせてしまいました

というのも↓

秀吉が大徳寺の山門を通ったときのこと。その山門の上に千利休が自身の像を安置していたんです

つまり千利休の像の下を秀吉が通ってしまったということ。それで秀吉マジ大激怒というわけ。

大徳寺の古渓和尚は、千利休の事件に巻き込まれ秀吉に怒られて、流罪(配流)となってしまいました。天正16年(1588)の出来事

こうして京から博多(当時の藩主は小早川隆景)へ流された古渓和尚でしたが↓

博多の豪商「神屋宗湛」「島井宗室」らは、住居【大同庵】を建てて古渓和尚をもてなしたのでした

それすなわち、ここ【大同庵跡】というわけ。つまり古渓和尚の住居の跡。↓

古渓和尚はこの地で博多商人らと交流を持ちながら3年ほど過ごしました。そしてその後、千利休の尽力もあって大徳寺に帰山することになったのでした。

 

博多の地での恩返しに、和尚は井戸に向かって「えいえいえいっ」と鎮火のパワー的ななにかをしたそうで

すると、この井戸は「火難除け」に霊験あらたかだと珍重され、和尚にちなんで【古渓水】と呼ばれるようになったのでした。

江戸時代になって【古渓水】は整備修復されましたが、のちの福岡大空襲によって焼失。有志のかたによって復元されて現在に至るというのが歴史の流れ。

そんな古渓和尚に因んで名のついた『古渓町』。1966年には先述の通りに名前を変え、現在の『奈良屋町』になったと。

こちらは『古渓和尚』の像で、その隣りには『奈良屋尋常小学校・奈良屋国民学校・奈良屋小学校』の石碑もありました。↓


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【大同庵跡・古渓水】

福岡市博多区奈良屋町4-25