唐津街道(一部)を辿ってみた13【猿田彦神社】

前回の続きです。↓

前回、『唐人町商店街』を駆け抜けて『善龍寺』前まで辿り着きました。↓

今回も元気にはりきっていきます。こんにちは。

『唐人町商店街』の突き当りで、唐津街道は左へ曲がります。

そして明治通りを越えても真っ直ぐ。

それから道はゆるやかなカーブを描き、交差点へ。

するとおや。なんだか見覚えのある景色が目の前に。↓

そう、ここは以前訪れたことのある『簗橋跡』(↑)。

交差する道路には、かつて「菰(こも)川」が流れていて、その「菰川」には「簗橋」が架かっていたそうで、

そばに説明書きがありましたので、

復習も兼ねて読んでみたいと思います。↓

『簗橋』とはこの場所にかつてあった菰川に掛けられていた橋の名。1800年代の福博古図には『古簗橋』とその名が記され、唐人町から地行西町(現今川1丁目付近)に抜ける唐津街道のこの場所にありました。「簗」とは魚を捕るための仕掛け。江戸時代この近くに簗所があったことからその名がつきました。現在、菰川は上が道路(県道東油山唐人線)となり、橋はなくなりました

では先へ進みましょう。

今川1丁目交差点を渡ってすぐの角に『西町観音』。

ちょっとお邪魔して↓

略縁記を読んでみようと思ったんですが、ですが!↓

さくっと断念です。なにせめんどい!

聖徳太子作の阿弥陀如来を、豊前国の宇佐から庄野彦左衛門が武運長久のために鳥飼宮の本地仏として同社神殿に安置

といったところで、残りの部分はみなさまに託したい。有志のかた、よろしくお願いします!報告は要りません!

 

ちなみに扁額には「阿弥陀如来」「十一面観世音菩薩」「文殊菩薩」と記されていました。

そこからほんのすぐ先には、↓

『鳥飼八幡宮』の南口。↓

こちらもずいぶん前のことですが訪ねたことがあります。たしか縁結びの神様的なご利益があった的な。↓

さらに引き続き唐津街道(ここは今川1291号)を進んでいくと、右手に『大通寺』そして↓

『金龍寺』の姿。↓

『金龍寺』(↓)も以前に訪ねたことがありますよ。そう、貝原益軒夫妻の眠るお寺。↓

しばらく進んで↓

「樋井川」に架かる↓

「今川橋」を渡ると↓

西新地区に到着です。

通りを少し逸れた先に↓

小さな碑を発見。『菊池霊社』の碑!?なんだろう。↓

六本松の『菊池霊社』(↓)と関係があるんでしょうか。分かりません。↓

それから西新4丁目の交差点を渡って

西新中央商店街へ入っていきます。↓

それから今度は西新5丁目の交差点で、交差する「早良街道」を越えていくわけですが、↓

この「早良街道」を、通りに沿って右へ進んでみたならば!

 

そこには「脇山口」の交差点があって、

渡った先には、あの『さざえさん通り』(↓)がのびているのだった。

では引き続き唐津街道辿っていきます。「なかにし商店街」を駆け抜けている途中に『紅葉八幡宮』の案内があって、↓

左へ曲がった先のところには『紅葉八幡宮』が鎮座。↓

以前に訪問したお話はこちらで(↓)。あれはいつかの秋のことだったなあ。↓

そこでふと右へ視線をやってみれば、明治通り沿いに立つ大鳥居の姿!↓

さらに商店街を先へ進むと、『唐津街道』は最終的に「明治通り」と合流します。↓

振り返って見てみるとこういう具合。↓

?おやこちらはなんだろう!?↓

通りの隅に『藤崎遺跡跡』と記された碑があって↓

読んでみると、おおよそこんな具合。↓

この地は弥生時代に集団墓地の遺跡として古くから知られていた。ビル建築に先だって発掘調査を行ない弥生時代の上拡墓十基、甕棺墓六十基とそれを囲む大溝などが発見。当時の生活や
埋葬儀礼の様相が明らかに

とのこと。そして通り沿いには『猿田彦神社』も。↓

以前訪れた時のお話はこちらで是非(↓)。↓

せっかくですし、今回も少し寄らせていただくことにしましょう。↓

そしてここでお開きです。↓

今回は福岡市早良区の藤崎地区まで辿り着きました。

お疲れ様でした。

次回に続きます。よろしくお願いします。↓


【PR】人はなぜ集団になると怠けるのか

【猿田彦神社】

福岡市早良区藤崎1丁目1-41