梯の暖簾とはいったいなんでありんす!?【書籍/遊郭をみる】

以前、福岡市博多区の柳町跡界隈を訪ねたときのことです。

辺り一帯の電信柱には様々な歴史物語の説明書きが張り付けられており、↓

その中の一つに、↓

柳町の絶世の美女博多小女郎には、ステータスとして「梯の暖簾」の使用が許可された

というお話があったんです。はて?梯の暖簾ってなに?梯模様の暖簾!?検索してみても分からず。

 

そこでさっそく図書館へ駆け込み、色々載ってそうな本を借りて読んでみたんです。今回はそのお話です。こんにちは。

まずは書籍『遊郭をみる/下川耿史 林宏樹』から始めたいと思います。↓

こちらの本には、全国各地にあった遊郭の成り立ちと衰退の歴史がそれぞれ詳細に記されており、

福岡市においてはまず『柳町遊郭』それから『新柳町遊郭』について取り上げられていました。そこで一部参照させていただくと(ありがとうございます)、

柳町遊郭は1590年に開設。井原西鶴によると『昼でも門を閉じくぐり戸から出入りさせて面白からず』。のち明治以降に大きく発展。帝国大学誘致によって立ち退きを命じられ、1911年に移転

とのこと。前回の訪問時、大門があったと記されていた場所も訪ねました。大門っていうくらいだから大きな門でしょう。

閉め切ってるのは、毎日開けたり閉めたりするのがめんどくさかったとか!?もしくはセキュリティ的な問題でしょうか!?

それはさておき、次は移転先の新柳町遊郭についての解説です。↓

新柳町遊郭の営業開始は1911年。草原だった東中洲を埋め立てて妓楼を新築。ダンスの大流行によりダンスホールに改築する店もあった

とありました。暖簾にまつわるお話は多分なかったような。

さて、それではお次に書籍『浮世絵に見る吉原/銀河社』を見てみることにします。

書籍内には、まず階級のお話があって↓

全盛を誇った太夫・格子が宝暦末に消滅。大衆化が進み、散茶が最高位に。上位から呼び出し・昼三・付廻し・座敷持ち・部屋持ち・切見世女郎

梯の暖簾はステータスだとあったわけですが、階級の中にその名は出てきませんでした。また暖簾自体に関する記述もあって、↓

遊女屋入り口を入ると、格子を組んだ籬(まがき)があって、籬の前を通り過ぎ暖簾をくぐると妓楼の1階

これは建物の構造のお話みたい。さらに次の書籍『図説吉原入門/永井義男』も読んでみます。↓

すると↓

遊女は本名ではなく妓楼から与えられた源氏名を名乗った。源氏名には格があった

梯の暖簾は源氏名のことかも!?だって格とはステータスでしょう!?近いような気がするけど正解やいかに。

また建物の構造のお話として、↓

妓楼の1階。入り口の通路を進み、暖簾をくぐると広い土間になっている。土間の一角には井戸があった

というお話もありましたが、結局【梯の暖簾】についてはよく分からずじまい。本のどこかに読み落としがあったのかもしれません。また詳細分かり次第、あらためてお届けしたいです。

ありがとうございました。完。

(※参考参照させていただいた書籍はこちらで!↓)


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