詩思有時渇 呼杯醉裏哦【原采蘋】
以前、長崎街道の一部を辿ってみた時に、

山家宿界隈を訪ね歩いたお話をしたことがあります。
その山家宿の構口には碑が立っており、

どれどれと読んでみるとこう記してあったんです。↓
原采蘋。秋月藩の儒学者原古処の長女として誕生。二十歳のとき、広瀬淡窓に才媛を認められる。上京の途中、頼山陽らに詩稿の添削を乞う。江戸在府18年、母の看病に帰郷。山家宿にて私塾を開く。江戸へ。萩にて病にかかり客死62歳。漢詩人
原采蘋(さいひん)。最近ふと彼女のことを思い出しましたので、

いったいどういう人物なのか、ちょこちょこちょっぴり調べてみたんだけど!?っていうお話をしたいです。こんにちは。

まずは『筑紫野市歴史博物館』で配布されていた一枚「筑紫野市教育委員会/ちくしの散歩 原采蘋」から、
ざっと参照させていただきます。(ありがとうございます)↓
幕末の動乱期、女流三傑の一人と謳われた原采蘋。寛政10年筑前秋月藩の儒者で藩学稽古館教授原古処とゆきの長女として秋月に生まれる。名は猷(みち)、号が采蘋
続きます。↓
文政8年、28歳のとき久留米藩士の養女という形で京に上る。秋月の藩政では女子が藩外に出るのが困難だったため。古処重病の知らせを受け帰省し看病に当たるも、没後は男装帯刀で東遊の旅に
続きます。↓
京では頼山陽、江戸では佐藤一斎などに支援と指導を受ける。江戸滞在は20年余におよぶ。嘉永元年51歳のとき、病気の母のため帰郷し筑前山家に移り住み、私塾を開く。母の没後、肥前肥後薩摩への遊歴の旅へ
続きます。↓
安政6年、采蘋は山家の住居を引き払い宿願である原古処の遺稿を刊行する目的でまた旅へ。出版の資金作りをしながら長州萩に着いたのち病に倒れる。古処詩集出版は成らず。安静6年、61年の生涯を閉じる
山家での生活については、↓
采蘋が開いた私塾の正式名称は伝わっていませんが、「宜宜堂」という額が架かっていたことが詩に見えます。采蘋については「うりざね顔の美人で大女、酒豪で、男装帯刀し一人旅に出、臆することなく艶聞の噂も多かった」という評。自由闊達な精神、繊細さと豪放さ
とありました。おぼろげながら、彼女の姿が見えてきたような気がします。
お次に今度は、wikipedia「原采蘋」の項より一部参照させていただくと、↓
江馬細香・梁川紅蘭らとならぶ、江戸後期の女性漢詩人の代表的人物。男装、帯刀の女流詩人として知られる。采蘋は亀井小栞、二川玉篠とあわせて「筑前三閨秀」。
15歳の頃、古処が政変に巻き込まれて職を解かれ、20歳にして天城詩社に入って父の代講を務めた。江戸に20年ほど滞在し『有喭楼日記』を記す。萩で客死するまで遊歴を続けた。男装のまま各地を旅し、生涯独身を通した。墓は西念寺(福岡県朝倉郡秋月町)と光善寺(山口県萩市)に
続きます。↓
亀井南冥の門下だった父古処と南冥の息子昭陽は親交があり、互いの娘少琹と采蘋も互いに行き来していて仲が良かった。亀井家と原家の親交は深く、親族のようだったとの記述もある。また、2人は幼い頃より、詩文に才能を開花させていたことも似通っている
ちなみに少琹はというと、今宿に住み漢詩と絵画に高い評価を得ているとのこと。続きます。↓
自身の詩集として『東遊漫筆』『采蘋詩集』等の著。男の身なりで行動しただけでなく、当時の武家の女性としては破天荒とも思われる豪放磊落な性格。酒好きでも知られた。
呼酒
酒唯人一口 酒はただ 人と一口
戸錢不須多 戸銭 多くをもちいず
詩思有時渇 詩思いて 時に渇くことあらば
呼杯醉裏哦 杯を呼びて 酔裏に口ずさむ
(※亀井南冥・昭陽そして少琹についてはこちらの記事も!↓)
それから、書籍「女だてら/諸田玲子著」も読んでみました。
こちらはみち(原采蘋)が弟の原瑾次郎に姿を変えて秋月黒田家のお家騒動に立ちあがるというハラハラ物語。

あとがきには実際の原采蘋についてこんなお話が記してありました。(一部参照させていただきます。ありがとうございます)↓
大柄の美人で性格は豪放磊落、大酒を飲み剣をつかい、ときには男装で闊歩
続きます。↓
秋月黒田家は本家黒田家に頭を抑えられており、原家は政変「織部崩れ」で没落。そんな中、采蘋は江戸へ向かったのでした
とのこと。

学問武術に優れ酒好き。男装帯刀して街を闊歩。それでいて艶聞の噂も多かったという女性儒学者原采蘋、のお話でした。終わり。
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