大きな気持ちで行ってくる【落日燃ゆ/城山三郎】

先日、どこでだったか、書籍『落日燃ゆ/城山三郎著』がオススメ図書リストに選ばれているのをふと見かけましたので、

ややっと久しぶりに再読してみたんです。今回はそのお話になります。こんにちは。

A級戦犯とされた7人のうちの1人であり、福岡出身初の首相でもある広田弘毅の生涯を描いた1冊。

 

広田弘毅といえば、まず、大濠公園そばに立つ銅像を思い浮かべますよね!?こちらの像は、玄洋社最後の社長で福岡市長を務めた進藤一馬の呼びかけで建立されたとききました。

(※玄洋社についてはこちらの記事も!↓)

(※大濠公園についてはこちらの記事!↓)

それ以外にも、例えば宇美八幡宮『産湯の水』の揮毫(広田弘毅によるもの)、また、

(※宇美八幡宮を訪ねたお話はこちらで!↓)

水鏡天満宮鳥居の扁額「天満宮」(小学生時代の広田弘毅によるもの)、さらに

「水鏡神社」の石碑(※17歳の広田弘毅が揮毫したもの)、

(※水鏡天幡宮を訪ねたお話はこちらで!↓)

はたまた志免町に鎮座する岩崎神社の『興風會之碑』の文字も広田弘毅によるものだったり。

(※岩崎神社を訪ねたお話はこちらで!↓)

こういった具合に、図らずも、広田弘毅に纏わる場所をこれまでいくつか訪ね歩いていたのでした。

それではそろそろ本のお話に移ります。

物語は広田弘毅幼少期からスタート。(ネタバレしかしませんのでご注意ください)

石屋「広徳」の広田徳平ははじめて授かった子に丈太郎と名づける。丈太郎は修猷館へ進み、在学中には玄洋社経営の柔道場に通う。

在学中に起こった日清戦争そして三国干渉に大きな衝撃を受け、外交官の道を志す。名を弘毅に改名し、東大へ進学。そして外交官へ

徳平といえば、東公園に聳え立つ亀山上皇像の銘板に、広田徳平の名が刻まれています。↓

(※東公園のお話はこちらで!↓)

また徳平は、大隈重信に爆弾を投げつけて重傷を負わせた来島恒喜のために立派な墓碑を寄贈したのだとか。(※崇福寺の来島恒喜の墓)

(※崇福寺についてはこちらの記事!↓)

続きます。↓

先輩や友人、ライバルとの死別を経験する中、外交官としての役割に徹して生きていく日々。不可侵・国際協調が外交官広田弘毅の考えであり、外務省内部では圧倒的な人望があり誠実で慎重な人柄とされた。

団琢磨がそして犬養毅が右翼に倒れる世情の中、外務大臣に就任する

(※団琢磨についてのお話はこちらでも!↓)

続きます。↓

「協和外交」をすすめ軍部に憎まれることに。斉藤実内閣に続き岡田啓介内閣でも外務大臣を留任。そして32代目首相へ。

陸軍の横暴にあいながらの組閣であった。閣内不統一を理由に内閣総辞職で首相を退く。

のち、近衛内閣のもと3度目の外務大臣に就任。ここでも軍の暴走の尻ぬぐいに奔走

続きます。↓

第2次大戦を終えると、極東軍事裁判にてA級戦犯として巣鴨プリズンに収監される。

玄洋社との関わりが指摘される中、広田は証言台に立たず沈黙を守り続ける。減刑嘆願72000の署名が集められるも再審請求は却下。1948年12月23日、広田は形場へ。完

といった具合に、広田弘毅の波乱万丈人生がつづられていました。読み応えのある一冊。

ここでついでに、wikipedia『広田弘毅』の項からもざっと参照してみますと、

福岡市立大名小学校、高等小学校卒業後、福岡県立尋常中学修猷館(現・福岡県立修猷館高等学校)に入学。三国干渉に衝撃を受け、外交官を志し、東京帝国大学法科大学政治学科に学ぶ。

A級戦争犯罪人容疑者として巣鴨プリズンに収監

続きます。↓

極東国際軍事裁判にて「対アジア侵略の共同謀議」や「非人道的な行動を黙認した罪」などに問われて起訴された。広田が沈黙を守り続けたのは、周囲の人間に累が及ぶことを一番心配していたからだとされる。

判決では総理大臣期の国策基準、防共協定、特に日中戦争期の外務大臣としての責任が言及された。

1948年(昭和23年)12月23日の午前0時21分、巣鴨プリズン内で絞首刑執行。70歳没。墓所は福岡市聖福寺

こちらが聖福寺で、↓

山門そばに、広田弘毅菩提所の碑があって、↓

また境内には、広田弘毅が聖福寺に贈るために書いたという「興禅護国」の碑が立っています。↓

終わり。