囲んだ土塁は全長8キロ【大城自然の宝道01】

先日、福岡県の大野城市側登山口から【四王寺山】を登ったんです。そして、

この登山をきっかけに、【四王寺山】そして【大野城跡】のことをあれこれ調べてみたんです。↓

 

すると【四王寺山】がどんどん身近な存在になってきて、

二人の仲は急接近。そういうわけで今回は、

登山当日の様子をお伝えしつつ、さらに、【四王寺山】そして【大野城跡】のお話もしてみたいと思います。今!激熱なんですよ!【大野城跡】。では出発。

ちなみにそれより前にも登ったことがあって、そのときは、「大野城市総合体育館」裏手からのびる「大野城歴史の散歩道」を辿りました。↓

今回はといいますと、同じ敷地の右端にある「福岡県市町村研修所」脇からのびる「大城自然の宝道」を進んでいきたいと思います。こんにちは。↓

さて整備された遊歩道をしばらく歩いていくと↓

休憩所とお手洗い、それから

「大城自然の宝道」に関する案内板が設置してあって↓

さっそく読んでみると↓

大野城市の市名は大野城跡に由来。「大城自然の宝道」の名称は大城小学校の児童によって名づけられました。四王寺山の上には大野城跡があります

とありました。これから進むコースの確認もしておきます。↓

休憩所では『大野城跡マップ』なるリーフレットが配布してありましたので、こちらもしっかりチェック。↓

そもそも【大野城】とはいったいなんぞやというところを、こちらのリーフレットから一部参照させていただくと↓

1400年前のこと。朝鮮半島は三国に分かれ争っていました。その中の新羅は唐と組み百済を攻めます。百済と仲の良い倭国は救援軍を送るも大敗

続きます。↓

倭国は唐・新羅の来襲を恐れ、水城を造り、さらに大野城・基肄城を造りました。それらは大宰府を囲むように配置されました

だそうです。(※水城のお話はこちらでも是非!↓)

先日訪ねた『宇美町立歴史民俗資料館』(↓)館内にも大野城跡の展示があったり

また「大野城跡散策マップ」というパンフレットをもらったりもしましたので、

そちらからもあれこれ参照させていただくと↓

大野城は宇美町・太宰府市・大野城市にまたがる四王寺山にある古代山城。城の範囲は東西1.5km、南北3kmの範囲であり、城内の80%が宇美町内にあります。大野城跡は、四王寺山の尾根や谷部を全長約8kmの土塁で囲んだ巨大な山城です

そうなんです。山を登りきったところには、土塁がぐるり1周円を描くように周囲を囲んでおり、その内側へ入るための門(跡)が数か所に設置。そこから内側には倉庫や住居が建てられていました、という形。

説明書きはもう少し続きます。↓

土塁とは敵の侵入に備えた城壁のこと。「版築工法」で造っています

この「版築工法」に関しては、水城土塁のお話の中にも出てきました。↓

そして↓

土塁の一部では石垣を造っています。なかでも百閒石垣は180mの立派な石垣です。城には出入り口が必要で、現在9ヶ所で城門跡が発見されています。お城の中には多くの建物があったと推定できる礎石建物跡が70棟以上見つかっています。炭化したお米を拾うことができる焼米ヶ原の多くは食糧保管庫であったと考えられます

でも結局のところ↓

半島から攻めてくることはなかったが、その後、新羅が日本を呪って祈祷しているという噂が広まったので、大野城に四天王寺が建てられました。現在四王寺山と呼ばれる由来はこのお寺と考えられます。四天王である「毘沙門天」「広目天」「持国天」「増長天」の地名は現在も残っていますが、お寺自体は謎に包まれたまま

四天王寺なのに「四天王寺山」じゃなくて「四王寺山」になるのが不思議。また↓

土塁上には33体の石仏群が点在。四国33ヶ所霊場の「霊土」を集め建立されました。かつては、石仏をめぐる千人詣りという行事が行われていました

とのこと。(※以前三十三石仏を訪ねようとしていたお話はこちらで!↓)

といった具合に、ここまでたっぷり【四王寺山】【大野城跡】について参照してきました。山名や地名の由来、そして33体の石仏が土塁上にあることも知ることが出来て良かったです。

大野城がどんどん面白くなってきてます。

ではそろそろ山登りを再開しますが、

お話の続きは次回に!よろしくお願いします。↓


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【大野城総合公園】

福岡県大野城市乙金618