追い廻され門ともいえる【追廻門/福岡城03】
前回の続きです。↓
前回、福岡市中央区にある福岡城の
お濠に架かる計3本の橋のうち、上之橋(↓)と下之橋の2本の橋の存在を確認した後、
まず「下之橋」を渡って『下之橋御門』をくぐり、そこで『伝・潮見櫓』と対峙したのでした。
今回はその続きです。こんにちは。↓
『下之橋御門』をくぐった先には「舞鶴公園線」という通りが、城内を分断するかのようにのびていて↓
その通り沿いに立つと、前回訪ねた『伝・潮見櫓』と『下之橋御門』が仲良く並んで建っているのを見ることができます。↓
そこからほんのすぐ先のところには『黒田如水隠居地(三の丸御鷹屋敷)』があって↓
ここは現在、『舞鶴公園牡丹・芍薬園』として開放されているらしく、さっそくお邪魔してみることにしました。↓
園内に立つ説明書きを読んでみると↓
こんな記述がありましたのでご紹介。↓
黒田官兵衛孝高(如水)は戦国武将で黒田藩藩祖。羽柴秀吉に従い中津城を築きました。長子長政に家督をゆずり隠居。晩年を福岡城で過ごしました
そして↓
貝原益軒の『筑前国続風土記』の中に「城内の北西に小高き山あり。本丸より高かったので低くして如水公の隠居地としました。」という記述から、この地が如水の隠居地だとされています
そんな隠居地(牡丹・芍薬園)のすぐ隣には↓
『旧母里太兵衛邸長屋門』があって↓
門の端っこの隅っこのところに↓
さりげなく説明書きがありました。↓
読んでみます。↓
筑前今様の「酒は飲め飲め」で知られる母里太兵衛は黒田24騎の一人。福島正則から名槍日本号を飲み取った豪傑として知られています。黒田長政の筑前入国後、6つの支城のうちの一つ大隈城の城主となりました。慶長20年に病没
また↓
天神2丁目にある野村証券の地は母里太兵衛の当時の屋敷で、この長屋門はそこに構えられていました。昭和40年にこの地へ移築されました
その『旧母里太兵衛邸長屋門』の左脇にのびる道を中へ入っていくと↓
奥に門!↓
これが名島の門つまり
ザ『名島門』。(※名島城のお話はこちらで!↑)
もちろん、↓
説明書きを読みます。↓
名島門は、天正15年(1587)に小早川隆景が多々良川口の名島の陸端に築いた『名島城』の脇門です。黒田長政が「名島城」から「福岡城」へ移る時に、黒田24騎の一人に払い下げられて邸宅の門として使用されていました
また↓
『名島門』は、いわゆる「名島ひけ」とよばれた「名島城」の数少ない遺構の一つです。戦後、現在地へ移されました
この『名島門』をくぐって、そのまま先へ進んでいくと『三の丸広場』そして『大濠公園』へと続いていくようになっていて↓
(※大濠公園のお話はこちらで!↓)
一方、門をくぐらずに引き返すと「舞鶴公園線」の通りの向かいに↓
『平和台陸上競技場』の入り口。↓
今回はこの「舞鶴公園線」に沿って、そのまま南へ歩いていきます。
というのも、福岡城に架かる計3つの門のうちの最後の1つ【追い廻し門】(の跡)が、この通りの先にあるらしいんです。↓
そのまま通りを真っ直ぐ進んでいくと↓
右手奥に『福岡市美術館』が見えてきて↓
通りの突き当りまで行くと、国体道路と交差します。その国体道路沿いには
以前訪れたことのある【護国神社】(※↑)が鎮座しており↓
その交差点を左へ曲がると、バス停。↓
バス停後ろには小さな池と小さな橋があって↓
私は、この小さな橋が【追い廻し橋】だと思っていたんですが、どうやら違うみたいなんです。実際の【追い廻し橋】はこの橋を渡ったさらに先のところにあったらしい。
のちほど訪ねたいと思います。↓
ところでこの「追い廻し」という名前。なにやら物騒です。想像するに、敵を城内に入れることなく追い廻して蹴散らした、そんなイメージが湧いてくる。↓
では逆の立場になって考えてみるとどうなるか。城に入れずにえんえんと追い廻される私。【追い廻し門】というのは【追い廻される門】でもあるのだ。↓
え?なんですか!?今回はここまでです。
続きはこちら!よろしくお願いします。↓
【福岡城】
福岡市中央区城内1