新羅が日本を祈祷で呪うから【大城自然の宝道02】
前回の続きです。↓
前回はといいますと、福岡県に聳え立つ【四王寺山】を登ろうと思い立ち、大野城市側登山口から「大城自然の宝道」コースを歩き始めました。↓
そして登り始めすぐにある休憩所で説明書きやリーフレットを読み、そもそも【四王寺山】とはなんぞやといったところをしっかり学んだのでした。↓
では今回も元気溌剌に山登ります。こんにちは。
「大城グリグリどんぐり橋」を渡ったら↓
740mの案内が出ており↓
ここからしばらく階段が続きます。↓
左上に東屋を確認。↓
そしてこちらには展望台。「大城自然の宝道 展望所4番」。↓
この位の高さでも、迫力のある景色が広がります。↓
そうこうしているうちに↓
今度は「展望所5番」に到着。↓
この辺りだと、もう息も絶え絶えといった具合である。↓
ようやっとこんな案内が出ていて↓
左へ行けば『毘沙門堂』、そして右へ行けば『広目天』だよ?と記してあります。↓
今回はまずはじめに、数年前の登山時にも訪れた『毘沙門堂』へ向かうことにします。↓
ちなみに!先述の説明から考えれば、今歩いているこの山道 is 土塁跡ってことになりますよね。辿って歩けば全長8キロ。
さて『毘沙門堂』前にはいくつか説明書きが立っていましたので、それぞれざっとチェックしていきます。↓
こちらに見える青いラインが、お城の外郭でありそして土塁跡であると。
また『大野城』『毘沙門堂』に関する説明書きもありましたので↓
さっそく読んでみると、↓
大野城は山の尾根に土塁を巡らし谷には石垣を積みました。土塁は砂質土と粘土質を叩き締めながら交互に積み上げる版築をおこなって造られています。内部には建物を建て、武器や食料を貯え、井戸を掘りました。門跡は9つ、建物跡は約70棟見つかっています
続きます。↓
774年、大野城には新羅調伏のため四王院が建てられました。これが四王寺山の名前の由来。その四王院は今の毘沙門堂辺りではないかと考えられています。平安時代には多くの経筒が埋納され、鎌倉時代には原山に多くの僧侶が住み、祈りの山となっていました。戦国時代には岩屋城が築かれ大きな戦いが起こります
もう少し続きます。↓
四王院には四天王(持国天、増長天、広目天、毘沙門天)を安置したと考えられます。毘沙門堂西側は大野城で最も標高の高い大城山山頂(441m)にあたります
とありました。つまり、四王寺山には重厚な歴史が積み重なっているから、よろしく頼みますよと、大きくまとめるとそういうことでしょう。
(※岩屋城のお話はこちらでも!↓)
では『毘沙門堂』にお邪魔します。地図で位置を確認すると、ここ『毘沙門堂』は土塁の内側つまりお城の中ということになるみたい。↓
「四王寺山はこの辺一帯の総称です」。これは大事な概念。↓
そして『大城山山頂』である。↓
こちらは『四王寺山三十三体石仏25番』の↓
「千手観音」。(※毘沙門堂周りの写真は一部、過去撮影したものを使用しています)↓
ここからどういうルートで進んでいくかといいますと、『毘沙門堂』を起点に土塁を反時計廻りに歩いてみようと思います。ということで、
お次は四天王の一人で知られる『広目天』区画を目指しますが、それは次回のお話に!よろしくお願いします。↓
【四王寺山/毘沙門堂】
福岡県糟屋郡宇美町四王寺